ネットの拾い物J「誰か昭和を想わざる」

WB HOUSEのBlogへようこそ!”健康に拘る”営業の河野です。資料差し上げます!
こうしてあなたと出会えたのも何かのご縁です、ぜひ「WB工法」と、「エアープロット」いう言葉を覚えて帰ってください、いつか必ずあなたのお役に立ちます!長野の棟梁が考えた「換気扇を使わないで室内の湿気・VOC・臭気を排出」する工法と、白金担持触媒で「アレルギー源を無害化する」方法です。

 

「誰か昭和を想わざる」から、渡部 亮次郎さんが下記引用されています。
有名人にもそれなりに苦労があったのですね・・。
顔写真はこちら(戦前)、(戦後)を参照してみてください、見つかるかも・・?
以下、長文の私の忘備録メモですが・・・宜しければ!どうぞ・・・。

「流行歌手の晩年」
 渡部 亮次郎
ブログに「誰か昭和を想わざる」があって昭和のはじめから今に至る歌謡曲とその時代背景を厖大な量で論述している。だが著者名は明らかにされていない。信用はおける。
 (2015-11-17現在このサイトは閉鎖されている・・引用者)
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html
 2023-9-5再度検索すると、「昭和歌手名鑑」として、下記が見つかったので、参考にして欲しい。・・河野追記
https://web.archive.org/web/20050408041835/http://www.geocities.jp/showahistory/history01.html
この中で様々な流行歌手の経歴も詳しく紹介されているが、興味を持ったのは、病名と墓地を詳しく述べていることである。私、渡部亮次郎(1936年=昭和11年生まれ)が興味を持った歌手の晩年を引用させていただいた。見出しは西暦だが、本文中の年号はほぼ「昭和」である。

 

赤坂小梅(1911-1992)
福岡の田川郡川崎町の生まれ。9人兄妹の末っ子。大正9年、16歳のときに八幡で梅岩の名前で芸者となる。昭和4年に藤井清水、野口雨情に認められレコードデビュー。
佐藤栄作、岸信介など著名人のお座敷も多くつとめ、紅白歌合戦にも数回出場、恰幅のいい体型が特徴的だった。56年に国立劇場の公演を最後に引退後は、晩年を千葉の老人別荘地で過ごし、民謡教室なども主宰した。
平成4年1/17午後7時24分、心不全で千葉県鴨川市の病院で死去。本名は向山コウメ。住まいは千葉県館山市安房自然村だった。葬儀は館山市の能忍寺で行われた。

 

暁テル子(1921-1962)
浅草出身。松竹少女歌劇団卒業後は古川緑波一座や東宝、松竹の舞台で活躍。脚線美が話題で、26年「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」で大ヒット。笠置シヅ子との軋轢は有名。「テリー」の愛称で親しまれた。
33年に肺を患ってからは事実上、引退状態となった。37年7/20午前2時、中野区江古田4丁目の自宅で心臓麻痺で死去。本名は関根ひさ子。

 

天津乙女(1905-1980)
神田出身。大正7年に宝塚に入団。12歳にして宝塚の東京出身団員第1号に。「すみれの花咲く頃」のオリジナル盤を吹き込む。「引退公演の最中にファンの結婚反対署名が殺到した事から破談に。
その後はファンのため、生涯独身を貫いた。54年10/18の「鏡獅子」が最後の公演となった。55年5/30午後7時、急性心不全で西宮の香雪記念病院で死去。本名は鳥居栄子。住まいは兵庫県宝塚市武庫山2丁目。谷中霊園に眠る。

 

淡谷のり子(1907-1999)
青森の旧家の生まれだが大火で没落、ヌードモデルなどで家計を助けながら東洋音楽学校を首席で卒業。「ブルースの女王」と呼ばれるようになる。ある時に自分のテープを聴いて「こんな歌ならお客さんに聴かせられない」とステージに上がるのを拒否したともいう。
平成6年には一過性吐血症で倒れる。自宅で妹と2人での車椅子生活の中、11年9/22午前4時30分、老衰で大田区上池台2丁目の自宅で死去。
本名は淡谷のり。猛暑がこたえたという。一時期、ピアニストの和田肇と結婚、和田との娘ではないが一女がある事はまったく知られていない。
長女は同じ敷地で暮らしていた。タンゴやシャンソンを日本に紹介した功績もあり、礼儀正しい反面、人にも厳しかった。また美容器具のゲルマニウム美容ローラーを片時も離す事もなかった。

 

井口小夜子(1914-2003)
東京出身。童謡歌手として昭和10年にデビューし、14年に武蔵野音楽学校を卒業。流行歌や軍歌などを吹き込み、36年の「紅孔雀の歌」で知られる。平成15年11/9午後5時35分、急性呼吸不全で死去。本名は田沼とみ子。住まいは神奈川県藤沢市鵠沼桜が岡4丁目だった。

 

生田恵子(1928-1995)
東京出身。戦前は宝塚歌劇団に参加。昭和24年に歌手デビュー。芸名はビクターで稽古をもじったもの。27年よりブラジル巡業を行い、28年に「東京ティナティナ」でヒット。「ティナティナ」とはチャップリンが「モダン・タイムス」で歌った曲。その後は青山で、曲と同じ名前の喫茶店を経営。晩年は老人ホーム慰問を行った。

 

池 真理子(1918-2000)
京都出身。宝塚歌劇団で三日月美夜子の名前で活躍。昭和21年に「愛のスウィング」がヒットするや、スウィングの女王として人気を得る。アンデスの子供にミルクを飲ませる運動などに従事。
平成12年5/28、都内のホテルのステージで「センチメンタル・ジャーニー」を歌った直後に倒れ、そのまま5/30午後10時24分、クモ膜下出血で還らぬ人となった。 住まいは世田谷区豪徳寺1丁目だった。

 

石田一松(1902-1956)
広島の府中出身。演歌師として活躍。1946年に衆議院選挙に当選し、代議士として4期つとめる。その後はラジオや舞台の出演をこなしていた1956年1/11午後7時52分、豊島区雑司ヶ谷3丁目の自宅で、胃ガンで死去。

 

市丸(1906-1997)
19歳で長野の松本より上京し、浅草で芸者に。清元、宮園節、小唄など邦楽を身に付け、昭和6年「花嫁東京」で歌謡界にデビュー。同年には「茶切節」がヒット。8年、中山晋平作曲「天竜下れば」が大ヒット。当時の歌手には珍しい美貌から、「歌より先に顔で評価されて損」などと当時の一般紙で書かれたりもしている。勝太郎との不和は有名であった。
ただ勝太郎が亡くなる前には、病室に見舞うなど、良き「戦友」として最後はお互いを認識していたらしい。柳橋近くの瀟洒な邸宅は、たまに料亭と間違えられる造りであった。
晩年は歌舞伎界の中村一門に推挙され、江戸小唄中村流の17代家元として後進の指導にあたるかたわら、歌番組にも出演。平成9年2/17午後3時44分、呼吸不全のため台東区の病院で死去。本名は後藤まつゑ。住まいは台東区柳橋1丁目だった。

 

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。昭和55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。
また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。

 

上原敏(1908-1944)
秋田県大館出身。専修大学では野球部のエース。昭和11年に歌手デビュー。「青空道中」「旅笠道中」「妻恋道中」を、ポリドールが敢えて新人売り出しのために上原に歌わせたところ、25万枚の大ヒットとなった。「流転」「裏町人生」「上海だより」とヒットを連発、特に女性に絶大な人気を博した。
しかし18年に出征。赤紙(召集令状)が来た時、ステージで「男散るなら」を熱唱し、それがファンの前に見せた最後の姿となった。歌手として慰問活動にまわる道もあったが、一兵卒としての扱いを本人自ら希望し、激戦地へ。
昭和19年にニューギニアで戦病死。従来のアイタペ戦病死説は上原の部隊の生き残りの軍医や、上原の周辺を取材したライターなどによって否定されている。
上原の戦病死の頃、既にアイタペは米軍の手中に陥落しており、上原の部隊はウエワクで反攻の機会をうかがっていたという。東部ニューギニア戦線の生還者はわずか1割で、苛烈な戦場だったために、生存者も余り当時の話を語りたがらないため、上原の最後はなお謎が多い。

 

宇都美清(1928-1973)
宇都宮出身。昭和21年デビュー。渡辺はま子とのデュエット「ああモンテンルパの夜は更けて」で知られる。36年から作曲も行った。48年3/4午後7時、肝硬変で都立荏原病院で死去。本名は吉田清男。

 

エト邦枝(1916-1987)
浅草出身。大蔵省に勤務しながらクラシックを勉強。帝国音楽学校を卒業し、昭和22年に歌手デビュー。30年「カスバの女」を吹き込み、42年になってヒットする。観光バスのガイドの指導を10年つとめた後、晩年は自宅でカラオケ教室を主宰した。62年3/13午前10時45分、大動脈瘤破裂で世田谷区の長谷川病院で死去。本名は笠松エト。

 

榎本健一(1904-1970)
麻布出身。日本の喜劇王として君臨した。27年に右足を脱疽、32年には1人息子(26)が死亡、37年暮れには右足切断と幸福な晩年ではなかった。
44年12/8に風邪を引き、治りが遅く衰弱してきたのだが、入院を拒否、45年1/1の朝には新宿区市谷加賀1丁目の自宅で雑煮に餅を3個、酒をお猪口で1杯飲むなどしたが、夜になって容態が急変、そのまま入院となった。
1/4夜より昏睡状態が続き、1/7午後2時50分、駿河台の日大病院で肝硬変のために死去、危篤とされてから7時間後の事だった。
菊田一夫、金語楼、徳川夢声、中村是好、藤原釜足、南利明、森川信、由利徹、笠置シヅ子、森光子、大宮敏光、益田喜頓、コロムビアトップ、坂本九などが病院に詰めかけ、回復を祈ったが、ならなかった。西麻布の長谷寺に眠る。

 

榎本美佐江(1924-1998)
川口出身。昭和21年にデビュー。28年「お俊恋唄」をヒットさせる。その後「十三夜」をリメイク。30年にプロ野球の金田正一と結婚し引退するが、38年に離婚してカムバックする。
平成10年9/23午前0時30分、大腸ガンで新宿区の病院で死去。住まいは渋谷区西原1丁目のマンション。葬儀は大久保の金龍寺で行われた。

 

江利チエミ(1937-1982)
入谷に4人兄妹の末っ子として生まれる。父は浅草のピアノ弾きでクラリネットも得意な久保益雄、母は浅草で映画スターだった柴崎ゆき子、レコードでアメリカの流行歌を覚えた。27年、15歳で少女歌手として「テネシー・ワルツ」のカバーでデビューし、これが20万枚のヒット。芸名の江利チエミは進駐軍キャンプまわり時代の「エリー」の愛称を「江利」とし、これに本名である久保チエミの「チエミ」をつなげたもの。
美空ひばり、雪村いづみと「三人娘」として人気を得、女優としても活躍した。34年に俳優の高倉健と結婚。46年に離婚、47年には芸術祭賞優秀賞を受賞する。晩年は寂しい一人暮らしで、知人にいま観ているテレビ番組の事などで電話をかけてきたほどであったという。
57年2/13未明、港区高輪2丁目のマンション4階の自室で吐瀉物を喉に詰めて窒息死。同月初めにファンであった近鉄のキャンプ地である高知に慰問した際より風邪気味だったため、2/12は、夕方に熊本から帰京し、自宅で寝ていた。
午後4時過ぎに泥酔して帰宅したのを目撃されている。その後、一旦、寝た後にウィスキーの水割りを3、4杯飲んだ形跡があった。2/13、午後4時過ぎから帯広での仕事で羽田空港へ向かう用事があり、午後3時にマネージャーの妻が迎えに行ったところ、自宅10畳間のベッドの上で赤と黒のジャンパーに赤のパンタロン、赤のブラウス姿で布団を胸まで被り、うつ伏せで死んでいるのを発見された。一面には吐いた後があった。
三人娘として扱われていた美空ひばりは、埼玉県深谷の公演先で電話で一報を聞き「いたずら電話と思った」「朝6時半にゴム風船が割れるような音で目覚めた」とも語った。雪村いづみは札幌のホテルで電話で一報を聞いた。
親しくしていた清川虹子は新宿コマでの公演終了後に訃報を聞かされ「うそだー」と泣き崩れた。世田谷の法徳寺に眠る。林真理子の「テネシー・ワルツ」はモデル小説である。

 

笈田敏夫(1925-2003)
ベルリン生まれ。父はピアニストの笈田光吉。昭和20年よりハワイアンバンドを転々とした後、28年にレコードデビュー。32年に慶応大学を卒業し、33年に映画「嵐を呼ぶ男」に出演。36年に恐喝で逮捕。宇治かほるは2人目の妻だったが死別している。戦後を代表するジャズ歌手として活躍。愛称は「ゲソ」。平成6年にニューヨーク公演、7年には勲四等瑞宝章を受章。15年9/2正午、腎盂ガンで死去。

 

近江俊郎(1918-1992)
東京出身。武蔵野音楽学校を教授と喧嘩して中退。戦後、「悲しき竹笛」「山小舎の灯」がヒット。23年の「湯の町エレジー」の大ヒットでスターダムに。51年には歌手生活40周年で全国縦断リサイタルを開き、歌手を引退。その後は大蔵映画の副社長となったり、「家族対抗歌合戦」のコメンテーターなどで死の直前まで活躍した。
人柄の良さでも知られ、近江を悪く言う関係者は皆無。平成2年に前立腺ガンとなり、回復したが、平成4年7/5午後7時5分、肝不全で港区の病院で死去。本名は大蔵敏彦。

 

大橋節夫(1925-2006)
昭和22年、慶応大学を卒業し、23年に大橋節夫とハニー・アイランダースを結成。「小さな竹の橋の下で」「倖せはここに」などでヒットを飛ばし、愛称は「オッパチ」。18年6/7午後8時37分、呼吸不全で大田区の病院で死去。

 

岡晴夫(1916-1970)
木更津出身。上野松坂屋の店員を経て、流しをしていたが、酒場で偶然に東海林太郎から誉められた事をきっかけとして、昭和13年に歌手デビュー。爆発的な人気を誇ったのは戦後になってからであった。「オカッパル」の愛称で「東京の花売娘」「青春のパラダイス」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などがヒット。
春日八郎の「お富さん」は元々、岡晴夫のために書かれたものだが、岡の移籍で立ち消えになったという経緯がある。しばらく低迷し、38年に「南の島に雪が降る」で再びカムバック。死の直前の44年にテレビ出演をしているが、関係者いわく、声も容姿も別人で唖然としたとの感想が大半を占めている。45年5/19午後3時36分、肝臓障害で千代田区の東京警察病院で死去。本名は佐々木辰男。江東区の本立院に眠る。 

 

音丸(1906-1976)
麻布出身。芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった。芸名は音は丸いレコードから、という意味。10年に「船頭可愛や」がヒット「満洲想えば」「下田夜曲」「博多夜船」がヒット。
23年には人吉を訪れ、「五つ木の子守唄」を見つけ出した。24年にキングに移籍、「五つ木の子守唄」を初めてレコード化した。後に人吉市長から感謝状を受けている。51年1/18午後0時半、世田谷区代田1丁目のマンションの自宅で急性心不全で死去。

 

小畑実(1923-1979)
朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身とされ、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。14歳で来日「婦系図の歌」「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒット。
戦後は「長崎のザボン売り」「星影の小径」などヒットを連発。時の韓国大統領の李承晩とは実懇で、献金を欠かさなかったという話もある。32年に紅白で「高原の駅よ、さようなら」を歌い引退表明。
54年4/24午後4時40分、千葉県野田市の紫カントリーすみれコースで、ゴルフの最中に倒れ、同市内の荒川外科病院に運ばれたが午後5時10分、急性心不全で死去。当日は午前10時に1人でコースを訪れ、初対面の男性3人とまわっていた。
1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、キャディが駆けつけた時には意識不明だった。このゴルフ場には月に5、6回来ていたという。住まいは港区六本木5丁目のマンションだった。大変な愛妻家でもあり、年を取っても人前でも新婚当初と変わらぬ様子を見せたという。

 

織井茂子(1926-1996)
目黒生まれ。少女時代から童謡歌手として活躍。作曲家大村能章の弟子。昭和28年、松竹映画「君の名は」の主題歌「君の名は」「黒百合の歌」が大ヒットとなる。33年には「夜が笑っている」がヒット。平成8年1/23午前9時24分、膵腫瘍で港区の病院で死去。本名は伊東茂子。住まいは目黒区洗足1丁目だった。

 

神楽坂はん子(1931-1995)
東京出身。16歳から神楽坂で芸者をしていたが、昭和26年にコロムビアの伊藤部長に連れられた古賀政男の座敷で「アリラン」を披露した事から気に入られ、27年に「こんな私じゃなかったに」でデビュー。
その後、「ゲイシャワルツ」の大ヒットを皮切りに、「セ・シ・ボン」を直訳した28年の「見ないで頂戴お月さま」、オペラの手法をヒントにした掛け合い歌の「こんなベッピン見たことない」などのヒットを連発した。
晩年は消息が聞こえなくなり、平成7年6/10、川口の武南病院で肝臓ガンで窮死。本名は鈴木玉子。死去の事実は1ヶ月近く近親者以外は誰にも知らされなかった。

 

笠置シヅ子(1914-1985)
香川出身。昭和22年夏に録音した「東京ブギウギ」が爆発的なヒットとなり、ブギの女王として、そのパワフルな歌声に身振りで一世を風靡。「買物ブギ」の作詞者の村雨まさをは服部良一のペンネームである。
現在、市販されている「買物ブギ」のラスト近くの「わて聞こえまへん」の歌詞は「わてつんぼで聞こえまへん」なのだが、ある時期よりの復刻では意図的に歌詞を削除したものが出回っている。
懐メロブームにも「私は時代の歌手だった」と再登場を拒否し、歌を再び歌う事はなかった。潔癖症でもあり、自宅の庭でのバラ栽培が趣味だった。
昭和60年3/30午後11時43分、卵巣ガンで中野区の佼成病院で死去。本名は亀井静子。住まいは世田谷区弦巻1丁目だった。杉並区の築地本願寺別院和田堀廟所に眠る。

 

春日八郎(1924-1991)
会津出身。東洋音楽学校に進む。昭和23年に歌手デビュー。27年、ようやく「赤いランプの終列車」がヒットする。29年には「お富さん」がヒット。この歌舞伎をモチーフにした奇妙な歌は、元々、岡晴夫が歌う筈であった。
平成3年の6月に入院、左大腿部腫瘍を切除、9/6に中野サンプラザでのキング60周年コンサートが最後のステージ。10/22午後8時38分、肝硬変と心肺機能不全で新宿区の病院で死去。足の切断手術を本人は覚悟していたのだが、容態が急変したもの。本名は渡部実。住まいは世田谷区深沢5丁目だった。

 

川田晴久(1907-1957)
東京生まれ。昭和9年に吉本興業に入り、川田義雄の名前で、あきれたぼういず、ミルクブラザーズ、ダイナブラザーズなどを率い、「地球の上に朝が来る」などで知られる。25年には渡米した。32年6/21午後1時35分、結核性腎臓炎で牛込の厚生年金病院で死去。本名は岡村郁二郎。多磨霊園に眠る。

 

川田正子(1934-2006)
東京出身。8歳から音羽ゆりかご会で活躍し、昭和18年から22年にかけて、「みかんの花咲く丘」「里の秋」などを吹き込む。30年に武蔵野音大を卒業してカムバック、成人してよりも童謡歌手として活躍し、54年には森の木児童合唱団を主宰。
平成18年1/22午後8時31分、虚血性心不全で世田谷区の病院で死去。自宅で入浴後に倒れていた。本名は渡辺正子。1/21の五島列島でのステージが最後だった。夫渡辺一男は元NHKディレクター。初任地秋田。

 

菊池章子(1924-2002)
下谷出身。天才琵琶少女として騒がれ昭和14年に「お嫁に行くなら」で歌手デビュー。18年の「湖畔の乙女」などでヒット。戦後は「星の流れに」や、「岸壁の母」がヒット。23年には大久保徳二郎と結婚、31年に離婚。
平成14年4/7に心不全で死去。本名は菊池郁子。住まいは品川区上大崎3丁目だった。妹も歌手で多摩幸子。孫の一仁はEvery Little Thingや浜崎あゆみの作品の作曲などを手がけている。

 

岸井明(1910-1965)
東京出身。歌うスターとして「タバコやの娘」などでヒット。158キロの巨漢を生かして活躍していたが、35年に眼底出血で倒れる。38年に引退。
40年7/3午前5時7分、世田谷区世田谷3丁目の自宅で心臓衰弱で死去。葬儀は台東区元浅草の吉祥院で行われた。

 

霧島昇(1914-1984)
福島のいわき出身。新聞配達、タクシー運転見習いなどをしながら、東洋音楽学校を卒業。昭和11年にコロムビアでデビュー。13年に映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。翌14年には、ミス・コロムビアと、山田耕筰の媒酌で帝国ホテルで結婚した。
またステージに出演中に赤紙が届き、客席から「若鷲の歌」の大合唱で送られたという逸話もある。戦後は「リンゴの唄」を皮切りに、夫人松原操の引退記念曲「三百六十五夜」などのヒットを飛ばした。
ステージに上がる前にはハーモニカを手に必ず楽屋で発声練習を怠らず、無口で真面目な人柄であった。大変なあがり症でこれは死ぬまで治らなかった。綺麗好きでもあり、楽屋の掃除を怠らなかったという。ステーキ好きな一方で、マラソンもかかさなかった。
58年にテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」に出演したのが最後のステージ。59年1月に入院し手術、3月には退院し元気にしていたが、4/24午後4時12分、腎不全で豊島区の一心病院で死去。本名は坂本栄吾。住まいは大田区田園調布1丁目だった。港区の長谷寺に眠る。子息の坂本紀男は東京音大教授。

 

楠木繁夫(1904-1956)
高知出身。東京音楽学校を学生争議で放校処分に。昭和5年に歌手デビュー「白い椿の歌」「緑の地平線」「女の階級」、「人生劇場」などが代表曲。戦中の19年には「轟沈」がヒット。戦後はヒットにめぐまれなかった。
30年11月には札幌の電電公社の慰安演奏で軽い脳溢血となり3ヶ月の療養を余儀なくされたが、将来を悲観、京都で当たった宝くじで新築したばかりの新宿区西大久保3丁目の自宅の物置小屋で31年12/14午後3時頃に首吊り自殺。
妻の三原純子は岐阜の高山市の日赤病院で療養中だったが、ラジオニュースで夫の悲報を聞き絶句したという。当時売れっ子の歌手を含め、この自殺は芸能界に「自分もいつかは」と深刻な影を落とした。高山の法華寺には楠木と三原純子の比翼塚がある。後に老齢を迎えた古賀はこの比翼塚の前で号泣したという。

 

小唄勝太郎(1904-1974)
新潟生まれ、11歳で料亭の養女となり、昭和4年、13歳で上京し日本橋葭町で芸者となる。芸の葭町と呼ばれた東京屈指の花街の名を負って、5年、新内の美声を買われてレコードデビュー。
試験盤を37枚使って吹き込んだ「島の娘」が大ヒット。当時としては破格の60万枚のセールスという余りの人気ぶり。「東京音頭」、二匹目のどじょうを狙った「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒットし、一大ブームを巻き起こした。
軍医の真野博士と戦後に結婚、家庭人と歌手の二足の草鞋を生涯、履き続けた。真野博士は中国で10年の抑留生活の末の帰国だったが、ずっと思い続けていた勝太郎が銀座の喫茶店に呼び出したもの。
実は競馬好きで、競走馬まで所有していた事は知られていない。48年12月の東京12チャンネルの「なつかしの歌声」が最後のステージ。その後、風邪をこじらせ、慶応病院に入院。49年6/21午前3時、肺ガンのため、府中市八幡町2丁目の自宅で死去、葬儀は中野区の竜興寺で行われた。本名は真野かつ。

 

小坂一也(1935-1997)
名古屋出身。成城学園高校時代より進駐軍まわりのバンドに参加。18歳でワゴン・マスターズを結成し、昭和29年に歌手デビュー。カウボーイスタイルでカントリーなどを歌っていたが、32年には「青春サイクリング」がヒット。その後は映画、テレビなどで活躍。49年には十朱幸代と結婚、翌年に離婚。平成9年11/1午前6時10分、食道ガンで死去した。

 

小林千代子(1910-1976)
小樽出身。東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団で活躍。昭和7年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。9年に夏川静江に婚約者だった新進作曲家を奪われて話題となった。51年11/25午後5時13分、膵臓壊死で赤坂病院で死去。住まいは渋谷区上原1丁目だった。 

 

佐藤千夜子(1897-1968)
山形の天童出身。終生、歌唱から山形訛りが消えなかった。東京音楽学校を中退後、昭和3年、「波浮の港」によって日本の国産レコード歌手第1号となる。「当世銀座節」「東京行進曲」「紅屋の娘」などヒットを飛ばし一躍、スターダムにのしあがった。
本来、クラシックを目指していた事情もあり、「東京行進曲」の印税で人気絶頂の4年にイタリアへオペラの勉強のため留学。しかしこれが千夜子の命取りになった。5年間のブランクは、もはやレコード界に千夜子の席を用意していなかった。
43年8月に医療保護患者として都立大久保病院に入院、12/13午後、ガンのため死去。生涯独身で家族はいない。天童教会の共同墓地に眠る。訃報は新聞の東京版のみの掲載となり、その死を知ったのは都内在住者など一部に限られた。その数奇な運命はNHKの朝ドラ「いちばん星」のモデルとなった。故郷の天童には佐藤千夜子記念館がある。

 

小夜福子(1909-1989)
沼津出身。大正11年に宝塚少女歌劇団月組に入り、昭和2年に男役で人気に、14年には月組の組長になる。15年に「小雨の丘」でヒットを出すが、結婚し引退。63年の舞台を最後に、芸能活動から引退。平成1年12/29午前9時、心不全で目黒の東京共済病院で死去。本名は東郷富美子。住まいは目黒区下目黒6丁目だった。

 

塩まさる(1908-2003)
福島のいわき出身。早稲田大学卒業後、千葉鉄道管理局に勤務。昭和12年にレコードデビュー。同年に「軍国子守唄」がヒット。14年には「九段の母」がヒットし、軍国調の歌を多く吹き込む。
同世代の歌手のほとんどが鬼籍に入る中、21世紀に入ってからも「私の子供みたいな年齢の」老人達の慰問に東奔西走する日々だった。平成15年10/16午前5時32分、老衰で死去。享年95.本名は塩正吉。

 

東海林太郎(1898-1972)
秋田出身。秋田中から早稲田大学商学部へ進み、卒業してすぐに満鉄の職員として8年間勤務。早大在学中より佐野学に師事して左翼思想に傾斜し、満鉄時代にも労働組合の調査研究などをしたため、図書館長という閑職に左遷させられる。一時期は特高にマークされるほどであったという。
9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。「国境の町」、「旅笠道中」、むらさき小唄」、野崎観音のPR盤として制作された「野崎小唄」、「麦と兵隊」など次々とヒットを飛ばした。戦後の一時期は進駐軍によって、封建的な歌を歌うと干されるなど不遇が続いた。
23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。終戦近くから南軽井沢に住み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりしていたが、晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年7月からマネージャーの住む立川市の羽衣町3丁目に引越し、地元に溶け込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地元の障害者施設に寄付するなどした。
44年に勲四等旭日小綬章、47年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午前には病院へ入院。次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。
47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参列した。秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは有名だが、「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。
戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキーとキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。酒豪としても知られ、歌手協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名である。

 

新橋喜代三(1903-1963)
西之表島出身。大正5年、芸者に出る。15年に鹿児島で小原節の歌い手として名をあげ、昭和6年にレコードデビュー。9年に日本橋三越の鹿児島名産展での「鹿児島小原節」でヒット。10年には「明治一代女」で大ヒットを飛ばす。
12年に中山晋平と結婚、引退。ステージの前には立てひざで樽酒を飲む事で知られ、中山晋平のプロポーズも樽酒を家に贈るというものだった。中山晋平の死後は、一時期、歌手として復帰したが、熱海で暮らしながら中山晋平音楽祭などに関与した。

 

杉狂児(1903-1975)
福岡出身。昭和11年に美ち奴とのデュエット「うちの女房にゃ髭がある」が大ヒット。映画出演は36年の「東京ドドンパ娘」が最後になったが、テレビなどで活躍。50年9/1午前3時、世田谷中央病院で心筋梗塞で死去。葬儀は世田谷区の妙寿寺で行われた。本名は杉禎輔。

 

鈴木三重子(1931-1987)
福島出身。31年に「愛ちゃんはお嫁に」が大ヒット。33年には藤山愛一郎や山野愛子らと「愛ちゃん会」を結成した。62年3/12午後0時30分、肝硬変で都立府中病院で死去。本名は菊池ミヘ子。

 

瀬川伸(1916-2004)
函館出身。昭和14年デビュー。26年「上州鴉」がヒット。その後も40年頃まで歌手を続ける。娘の瀬川瑛子も歌手。平成16年3/14午後2時3分、心不全で死去。

 

関種子(1907-1990)
東京生まれ。東京音楽学校を卒業後、「日本橋から」「窓に凭れて」、10年には「雨に咲く花」などのヒットを矢継ぎ早に連発し、草創期のコロムビアを支えた。
戦後は藤原歌劇団に所属し、長門美保、佐藤美子とコンセールFを結成するなどした。平成2年6/6午前9時5分、急性腎不全で熊谷の聖ヨゼフクリニックで死去。葬儀は早稲田の亮朝院で行われた。うたごえ運動で知られる関鑑子は実姉である。女優の関弘子は娘。
高田浩吉(1911-1998)
尼崎出身。昭和10年に「大江戸出世小唄」で歌手デビュー。同名の映画の中でこの歌を歌った事から「歌う映画スター」第1号として評判になる。
同26年に松竹京都に復帰。鶴田浩二は地方巡業の際に浜松で拾った弟子にあたり「浩二」の「浩」は「浩吉」の「浩」にちなんだもの。
京都に住み、夜の10時以降は取材禁止と、公私の別をはっきりとさせた人であった。元々、歌手は副業だったためか、晩年は美声の衰えを隠せなかった。平成2年10年5/19午前8時32分、肺炎のために京都府北区の病院で死去。本名は梶浦武一。娘の高田美和も女優である。

 

高峰三枝子(1918-1990)
東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。
さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。
昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。

 

竹山逸郎(1918-1984)
浜松出身。昭和19年に慶応大法科卒業後、18年に歌手デビュー。22年、「酒は涙か溜息か」の戦後版を目論んだ「泪の乾杯」が、A面の平野愛子「港が見える丘」ともどもヒット。
23年の「異国の丘」は、当初、作曲者不詳のまま、NHKラジオの「のど自慢」で8/1に復員兵の中村耕造が歌い、かつてない勢いで鐘が乱打された。その後の調べで作曲者は吉田正と判明。
晩年は学習塾を経営。酒豪で1升酒も平気であった。59年4/4午後4時半、肝機能障害で中野区の国立療養所中野病院で死去。本名は竹山逸平。
葬儀は練馬区のセブンズデー・アドベンチスト関町教会で行われた。

 

田谷力三(1899-1988)
神田生まれで旧士族の家系の根っからの江戸っ子。19歳からは浅草オペラのトップスターとして本領を発揮。観音劇場、金竜館などで、関東大震災で浅草オペラが消滅するまで活躍した。
バラックに暮らしながら、青山墓地で発声練習をし、23年5月にNHKラジオ「陽気な喫茶店」でカムバック。61年には不忍池にゴンドラを浮かべてカンツォーネを披露。62年には上野精養軒で米寿記念コンサートを開くが、声量は全く衰えなかった。「老いらくの恋」と騒がれ83歳で再婚した愛妻を亡くし、自身も心臓発作に倒れるが回復、63年3/13、豊島区の教会で親類の結婚式に「恋はやさし」を歌ったのが最後となった。
3/14に倒れ、3/30午後0時10分、心筋梗塞と心不全で千代田区の日本歯科大病院で死去。89歳だった。化粧をせずに舞台に出るのは失礼という考えから、最後まで素顔でステージに立つ事はなかったという。

 

津村謙(1923-1961)
富山出身。魚津中卒業後、上京し、作曲家の江口夜詩の門下となる。「ビロードの歌声」と呼ばれて23年の「流れの旅路」がヒット。26年には「上海帰りのリル」が爆発的なヒットとなった。36年11/28朝7時半、杉並区神明町の自宅車庫の車内で、意識を失っているところを母(62)に発見され、医者が呼ばれたが間もなく死亡した。
午前1時頃過ぎに練馬区向山町の作曲家、麻雀をしていた吉田矢健次の家から車で帰宅、朝早い時間で妻や母を起こす訳にもいかずにエンジンヒーターをかけたまま寝込み排気ガスが車内に充満、一酸化炭素中毒になったらしい。車庫のシャッターを下ろしていて、飲酒の形跡もなかった。本名は松原正。小平霊園に眠る。

 

鶴田浩二(1924-1987)
浜松出身。巷間伝えられているような飛行機乗りではなく、見送る立場の飛行整備士であったというのは複数の海軍関係者の見解。28年には大阪で暴漢に襲われる。同年には東宝と契約。歌手としても、27年にポリドールから「男の夜曲」でデビューし「街のサンドイッチマン」、30年に「赤と黒のブルース」などがヒット。
35年に東映と契約し、38年の「人生劇場・飛車角」が東映任侠映画の最初となった。45年には「傷だらけの人生」がヒットし、この頃から戦没者遺骨収集のチャリティーコンサートを行う。晩年は特攻隊に絡んだ右寄りのスタンスの発言で知られた。
春日八郎との不和はあまり知られていない。耳が悪く左手を耳にあてて歌うポーズは有名。映画は60年の「最後の博徒」が最後の出演、咳がひどくなり、61年肺ガンで2ヶ月半入院し、62年5月に再入院、月末には1週間自宅に戻ったものの、6/16午前10時53分、慶応病院の5階で死去。本名は小野栄一。葬儀では海軍の知人らに「同期の桜」の合唱で送られた。

 

ディック・ミネ(1908-1991)
徳島出身。父は土佐高校創立者。古賀政男の推薦もあって昭和9年に歌手デビュー。芸名はスキー場で悪友に付けられたもので、ディックは男性器を意味する。同年「ダイナ」がヒット。「二人は若い」「人生の並木路」「旅姿三人男」「上海ブルース」などのヒットを飛ばす。
晩年には学生時代に相撲部で骨折した後遺症から車椅子生活となったが、歌手生活は続けた。平成3年4月に前立腺肥大で入院、6/10午前4時7分、急性心不全で埼玉県飯能市の病院で死去。享年83。本名は三根徳一。

 

徳山王連(1903-1942)(王へんに連)
神奈川の藤沢出身。東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となるが、佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁から昭和6年に流行歌手に転向し、「侍ニッポン」でスター歌手の仲間入りを果たした。
「侍ニッポン」では「新納(にいろ)鶴千代」を「新納(しんのう)鶴千代」と誤って歌ったまま、それがレコード発売された経緯がある。四家文子と歌った「天国に結ぶ恋」がヒット。9年には藤山一郎、小唄勝太郎、渡辺はま子と共に皇族懇話会で美声を披露、それまで地位の低かった流行歌の扱いが、この御前演奏で変わったともされる
戦中はノモンハンの陸軍飛行隊をテーマにした「空の勇士」や15年の「隣組」などの戦時歌謡で一世を風靡した感がある。他にも14年には「大陸行進曲」「太平洋行進曲」、16年には「戦陣訓の歌」なども吹き込んだ。17年1/28午後5時に慶応病院で敗血症で死去。神奈川県藤沢市の常光寺に眠る。

 

轟夕起子(1917-1967)
東京出身。「お使いは自転車に乗って」がヒット。42年5/11午後5時15分、慈恵医大第3病院で、閉塞性黄疸のため死去。本名は西山都留子。

 

トニー谷(1917-1987)
銀座生まれ。昭和26年に中国から復員し、アニー・パイル劇場で進行係をしたのを皮切りに日劇ミュージックホールで司会をつとめ、キザなメガネにチョビヒゲ、そろばん片手の異色なポーズと毒舌で一世を風靡。「さいざんすマンボ」などを吹き込む。
引退後はハワイで生活。61年12月、渋谷ジアンジアンでの「トニー谷ショー」が最後の舞台。62年7/16午前0時14分、港区の慈恵医大病院で死去。享年70。

 

永田絃次郎(1909-1973)
平壌生まれで本名は金永吉。「出征兵士を送る歌」なども吹き込む。35年1月、祖国の北朝鮮に帰還。しかし労働党幹部の前で歌ったイタリア歌曲「オー・ソレ・ミオ」を資本主義的と批判された。
余りに不自由な生活から、日本人妻と1男3女の子供を日本に帰そうとするなどした事で一家全員処刑されたとされる。一説には収容所や炭鉱で窮死したという説もあるが、家族ごと忽然と姿を消した事は確実なようだ。

 

永田とよ子(1928-1987)
浪曲師伊丹秀子の娘で、天中軒雲月として知られる。「津軽の子守唄」などを歌う。青木光一と結婚し、その後、離婚。

 

中野忠晴(1909-1970)
愛媛出身。武蔵野音楽学校卒業後、恩師山田耕筰の推薦で、昭和7年春にコロムビアから徳山?の対抗馬としてデビュー。山の人気者」「小さな喫茶店」が大ヒット。その後、作曲家として活躍、「おーい中村君」「赤い夕陽の故郷」「達者でナ」などを作曲した。45年2/19午前10時40分、板橋区東新町1丁目の自宅で肺ガンで死去。

 

並木路子(1924-2001)
台湾出身で東京育ち。「リンゴの唄」が翌21年に発売されるや、全国を席巻する大ヒットに。レコードの吹き込みは昭和20年代を最後に、61年に新曲を発表するまで、およそ30年近く行われなかった。
平成13年にかつて5人の会として活動していた二葉あき子との4/8の草加でのコンサートの舞台を前に連絡が取れなくなった関係者が自宅に出向いたところ、4/7午後11時、渋谷の自宅マンションの浴室で急死しているのが発見された。心筋梗塞だった。本名は南郷庸子。

 

奈良光枝(1923-1977)
弘前出身。弘前高女卒業後、兄の知己、明本京静の薦めで東洋音楽学校卒業。戦後の21年に浅草でステージに出ていたところを、映画監督の千葉泰樹によって「或る夜の接吻」の主演に抜擢され、主題歌の「悲しき竹笛」がヒット。24年12月にはNHKプロデューサーの佐藤邦彦と結婚。
その後も、24年に藤山一郎とのデュエット「青い山脈」や「赤い靴のタンゴ」などがヒットした。51年7月の日立市での公演が最後になった。歳を経ても物静かで清楚な美人であったが、52年5/14午前4時9分、聖路加国際病院でガン性腹膜炎にて死去。本名は佐藤みつえ。

 

日本橋きみ栄(1915-1993)
東京出身。昭和9年に歌手デビュー。12年に「蛇の目のかげで」がヒット。戦後の22年に「炭坑節」をヒットさせる。平成5年10/9午前2時10分、急性心不全で千葉県市川の病院で死去。葬儀は台東区の一乗寺で行われた。本名は荒井きよ子。

 

野村雪子(1937-2000)
弘前出身。中学時代にコロムビア全国歌謡コンクールで4位。昭和27年に「伊豆の十三夜」でデビュー。30年に「おばこマドロス」がヒット。平成12年4/23午前2時10分、胃ガンで品川区の病院で死去。本名は佐々木雪子。

 

灰田勝彦(1911-1982)
ホノルル生まれの日系二世。「ハワイ生まれの江戸っ子」というネーミングは灰田が死去した際に、親友だった別所毅彦が毎日新聞からコメントを求められ、そのように表現したもの。15年に「燦めく星座」がヒット。また「森の小径」は特攻隊や学徒兵に愛唱された。17年には「新雪」、後に海外で「スシ」として紹介された「鈴懸の径」、18年には「加藤部隊歌」とヒットを続けた。「ラバウル海軍航空隊」は発売時には肝腎の航空隊はすでに壊滅していたという話もある。
57年10/26午前10時5分、肝臓ガンのため半蔵門病院で死去。本名は灰田稔勝。

 

林 伊佐緒(1912-1995)
下関出身。明治大学中退。「若しも月給が上がったら」がヒット。作曲家としても数多くの作品を残し、「出征兵士を送る歌」「リンゴ村から」「長崎の女」などの他に、持ち歌の大部分は自作によるもの。
戦後「ダンスパーティの夜」、29年の「真室川ブギ」、30年の「高原の宿」などのヒットで、紅白歌合戦の初期には常連であった。最晩年まで懐メロ番組への出演を続け、死のわずか3日前にはラジオ収録までこなした。平成7年9/29午前2時16分、肺炎で死去。本名は林勲。

 

平野愛子(1919-1981)
新宿出身。22年に作曲家の東辰三が新人歌手養成用に作ったビクター戦後第一号のレコード「港が見える丘」でデビュー。これが大ヒットとなり、舞台の横浜には、港が見える丘公園が作られた。
23年には「君待てども」がヒット。25年には「白い船のいる港」がヒット。東辰三は神戸高商出身で深川で木工場を経営するという異色の経歴、東の子息が山上路夫である。平野は江戸っ子気質だったが、大変な読書家でもあった。気難しいインテリで処世術が下手だったという評価もある。
晩年は自宅で音楽教室を開いた。56年11/22午後9時24分、新宿区の国立医療センターで卵巣ガンで死去。娘の淑子はシャンソン歌手。

 

藤島桓夫(1927-1994)
大阪出身。電話局勤務を経て昭和25年、レコードデビュー。「初めてきた港」「かえりの港」「お月さん今晩は」がヒット。35年「月の法善寺横丁」が大ヒットし、大阪物はヒットしないというジンクスを破った。平成6年1/20に倒れ、2/1午後8時47分、高血圧性脳出血で死去。本名は坂本義明。同月下旬には新曲を予定していた。住まいは中野区本町5丁目だった。

 

藤本二三吉(1897-1976)
浅草千束生まれ。正真正銘の江戸前の芸者。昭和3年4月にビクターの専属歌手となる。4年に「浪花小唄」、5年に「祗園小唄」がヒット。芸者歌手の草分け的存在。江戸を離れた事がないのが自慢で、晩年に浜町から渋谷へ引越す事となった際には悔し泣きをしたという。
野球は巨人ファンだった。51年10/29午後4時半、脳出血で西宮の兵庫医科大病院で死去。本名は藤本婦美。娘の藤本二三代も紅白歌手として、30年代半ばに「夢見る乙女」などのヒットを飛ばした。

 

藤本二三代(1946-2001)
東京出身。吉田正に師事し、昭和31年に「花の十九よさようなら」でデビュー。33年に「夢見る乙女」がヒット。最後の吹き込みは48年の「ふたりの北新地」。晩年は神戸で暮らした。平成13年3/28、大動脈解離で急逝。本名は三谷綾子。藤本二三吉の娘。娘の藤本じゅりも歌手。

 

藤山一郎(1911-1993)
日本橋生まれの生粋の江戸っ子。慶応普通部では岡本太郎と同窓であった。東京音楽学校在学中の昭和6年、家計のあまりの苦しさを見かねてアルバイトとして「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などを吹き込むが、これが予想に反して大ヒット。
あまりの反響のすごさでわざわざ変名まで使って吹き込んだ、このアルバイトが学校に知られて停学処分となる。同時期に吹き込んだ「影を慕いて」も爆発的なヒットとなり、歌手藤山一郎の名は作曲家古賀政男の名と共に全国区になった。
24年「青い山脈」がヒット。被爆体験記を書いた永井隆博士に捧げる形の「長崎の鐘」もヒット。流行歌を「コジキ節」と蔑視したサトウハチローが初めて本気で書いた作詞で、永井博士はこの曲の流行の直後、被爆の後遺症で死を遂げた。29年にはNHK嘱託となる。
5年8/21午前2時まで目黒区中町1丁目の自宅で妻が腰をさすりそのまま就寝したが、3時半に「痛い」と大声を発した。医師は20分後にやって来たがすでに心臓は停止状態で、4時25分に急性心不全で死去。本名は増永丈夫。「ピアノをがーんと弾いてぴたっと止まるような死に方」を望んでいたという。
自動車狂としても知られ、戦後の一時期は自ら外車ショップを経営した事もあった。煙草は戦後から始めたという。後輩では岡本敦郎や伊藤久男を正統派として評価していた。美空ひばりについては「見せる歌手」「歌える女優」と思っていたという。

 

藤原義江(1898-1976)
スコットランド人を父に下関に生まれた。イタリアで本格的に声楽を学んだ。「出船の港」は大正14年にアメリカのビクター本社で吹き込みされていたもの。
別れたあき子夫人は国会議員として活躍していたが義江より先に他界している。あき子の死後は帝国ホテルで1人住まい、部屋で1人、倒れて意識を失っているのを知人に発見された事も数回に及んだ。
51年3/22午前8時35分、パーキンソン氏病に肺炎を併発し、日比谷病院の6階で死去。大歌手である事を鼻にかけず一般からの絶大な支持を受けた。義江の没後、57年には下関に藤原義江記念館が開設され、また記念切手のモデルにもなるなど、昭和の日本を代表する国際的歌手としての評価はいささかも色褪せない。

 

二村定一(1900-1948)
下関生まれ。浅草オペラで有名となる。「青空」「アラビアの唄」が同年にヒットして一世を風靡、「君恋し」でもヒットを放つ。日本で最初にジャズソング、コミックソングを普及させた人である。同性愛癖も示唆されていて、極度の女嫌い。
戦後の23年、かつての後輩エノケンに救われる形でエノケン一座の客分として復活。しかし間もなく、有楽座の「らくだの馬さん」を最後の舞台として、10/12朝、国分寺病院で死去。享年48.本名は林貞一。

 

星玲子(1915-2003)
東京出身。ダンサーから昭和7年、映画デビュー。10年にディック・ミネとのデュエット「二人は若い」がヒット。同年に映画監督のマキノ光雄と結婚し、14年に引退。平成15年10/24午後3時56分、肺炎で死去。本名は多田琴子。

 

松島詩子(1905-1996)
山口の柳井出身。地元の音楽教師から歌手に転身。10年に「夕べ仄かに」がヒット。12年には自らのピアノの弾き語りによる「マロニエの木陰」が大ヒット。小学校歌唱指導の旅で「月の砂漠」を全国に広める。
晩年は声が出なくなるとテレビ出演を断り、公の場で歌う事はなくなった。平成8年11/19午後10時21分、心不全で死去。本名は内海シマ。故郷の柳井には松島詩子記念館があり、松島詩子を記念した音楽コンクールも行われている。夫も歌手の内海一郎。

 

松平晃(1911-1961)
佐賀の旧家の出身だが実家が破産。東京音楽学校在学中、家計の苦しさから藤山一郎の紹介で昭和7年の「忘られぬ花」のヒットで学校に知られ退学。「サーカスの唄」が大ヒット。「急げ幌馬車」、「夕日は落ちて」「花言葉の唄」や同年の「人妻椿」など次々にヒット。
戦後の25年にブラジルへ公演旅行に渡るが、現地で原因不明の血液の病気になり5回も手術、声質が落ちた上、興行主の不手際から帰国費用がなくなり、現地の日本人のカンパで日本へ戻るまで1年半の滞在となった。
テレビ東京などが火をつけた懐メロブーム以前に急死したため、他の懐メロ歌手に比べて知名度が不当に低い。晩年は東中野で歌謡学院を主宰し明石光司などのレコード歌手を送り出した。女優の森光子は旅巡業時代の弟子筋にあたる。
36年3/8午後10時半、東京の昭和医大病院で心筋梗塞で死去。本名は福田恒治。

 

松山恵子(1938-2006)
千住生まれで愛媛の宇和島育ち。「未練の波止場」「だから云ったじゃないの」「お別れ公衆電話」がヒットした。平成18年3/22に入院、5/7、肝臓ガンで 埼玉の越谷市の病院で死去。本名は岡崎恒好。昭和44年の自動車事故の輸血でC型肝炎となり、10年近く闘病をしていた。

 

ミス・コロムビア(1911-1984)
小樽出身。青山学院を経て、東京音楽学校声楽科を卒業。「十九の春」「並木の雨」とヒットを続ける。元々、流行歌の吹き込みには前向きでなかったのだが、相次ぐヒットは彼女を不動のスター歌手の座に押し上げた。
13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を霧島昇とのデュエットで吹き込み、翌14年、帝国ホテルで山田耕筰媒酌によって霧島昇と結婚。霧島の四十九日の1週間後に後を追うようにして、59年6/19午前7時20分、腎不全で川崎市中原区の井田病院で死去。本名は坂本操。港区の長谷寺に眠る。

 

美空ひばり(1937-1989)
横 浜に魚屋「魚増」の娘として生まれる。昭和21年にアテネ劇場で9歳でデビュー。22年に音丸一座で高知県を巡業中にバス事故に遭遇。この時に杉の木に将 来のスターとなる事を誓った話は有名。24年に芸名を美空ひばりとし、映画に初出演、またデビュー曲となる「河童ブギウギ」も吹き込む。笠置シヅ子の持ち 歌であった「ヘイヘイブギ」をステージで歌っていたところ、笠置サイドからクレームがついた話は有名。同年には映画「悲しき口笛」に主演して同名の曲も 10万枚のヒット、一躍、天才少女として名を馳せた。この「悲しき口笛」は戦後まもなくのヒット曲「悲しき竹笛」を凌駕するほどであった。しかし子供らし くないとその異質の才能を非難する声も少なくはなかった。25年にはハワイ公演を行い「東京キッド」と谷内六郎が大好きだったという「越後獅子の唄」が、 26年には「私は街の子」「あの丘越えて」がヒット。27年には歌舞伎座でリサイタルを開き、ラジオドラマ「リンゴ園の少女」の主題歌「リンゴ追分」や 「お祭りマンボ」などがヒット。江利チエミ、雪村いづみと「三人娘」と評された。同年から40年まで、「平凡」の人気投票で常に一位の座をキープし続け た。その驚異的な人気は31年の公演にファンが殺到し、圧死事件が起きたり、32年には浅草の国際劇場で狂信的なファンの女性に塩酸をかけられるなどに証 明される。映画でも嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」の杉作役や、29年の「伊豆の踊子」などで人気が沸騰、映画会社6社がひばり独占禁止の裏協定を結んだなどと噂 されるほどで、33年には映画15本に主演、10曲ものヒットを飛ばし、まさに女王ひばりの黄金時代であった。この頃のヒットには語呂がいいとネーミング され、特定のモデルはない「港町十三番地」や「花笠道中」「哀愁波止場」、140万枚のヒットとなった「柔」などがある。ひばりの母のステージママぶりは 有名で、ひばりの公演に際してはリハーサルからずっと舞台に立ちあい、些細なミスにも怒鳴ったために誰もひばりの楽屋には近づかなかったのだという。37 年には小林旭と結婚するが、39年に離婚。40年代に入ると、「悲しい酒」「真赤な太陽」などがヒット。新宿と梅田のコマ劇場での公演だけで、22年間で 700万人以上を動員という記録を誇る。しかし48年には実弟の暴力団とのつながりで当時の警察の暴力団壊滅作戦のスケープゴートにされ、なおも身内をか ばったひばりは同年の紅白歌合戦を落選、公共施設でのステージのキャンセルなども相次ぎ、事実上、干される事になった。56年の母、喜美枝の死去に続い て、58年にはかとう哲也、61年には香山武彦と実弟二人も相次いで死去するなど身内の不幸に見舞われ、ひばり自身も61年頃から不摂生が祟って体調を崩 した。この頃のヒットには「愛燦燦」「川の流れのように」がある。62年4月に両側大腿骨骨頭壊死と肝臓病で済生会福岡総合病院に入院、8月には退院し、 帰京。63年4月の東京ドームコンサートはスポーツ各紙が一面トップで成功を報じたが、11月から歩くと息切れがするようになり、平成1年3月に再入院、 6/10に容態が急変し、間質性肺炎と呼吸不全、肝硬変と大腿骨骨頭壊死で6/24午前0時28分に順天堂大学病院で死去。一般紙各紙もその死を一面トッ プで報じ、テレビ各社も特別番組を流し続けて、ひばりの全盛期を知らない若年層に相当のインパクトを与えた。同年、国民栄誉賞を受賞。死後10年経っても 映像でのコンサートチケットは完売するなど、その影響力はいまだ衰えない。本名は加藤和枝。住まいは目黒区青葉台1丁目だった。生涯の歌手生活43年で 4000万枚のレコードを売った。 

 

昭和24年   悲しき口笛
昭和25年   東京キッド
       越後獅子の唄
昭和26年   私は街の子
       ひばりの花売り娘
       あの丘越えて
昭和27年   リンゴ追分
       お祭りマンボ
昭和29年   ひばりのマドロスさん
昭和30年   娘船頭さん
       素敵なランデブー
昭和31年   波止場だよお父つぁん
昭和32年   港町十三番地
昭和35年   哀愁波止場
昭和36年   車屋さん
昭和37年   ひばりの佐渡情話
昭和38年   哀愁出船
昭和39年   柔
昭和40年   お島千太郎
昭和41年   悲しい酒
昭和42年   真赤な太陽(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)
昭和61年   愛燦燦
昭和62年   みだれ髪
平成1年   川の流れのように

 

美ち奴(1917-1996)
樺太出身。昭和9年にレコードデビュー。11年に杉狂児とのデュエットによる「うちの女房にゃ髭がある」がヒット。またチンドン屋の「竹に雀」をイメージ した「あゝそれなのに」もヒットさせる。作詞者の星野貞志とはサトウハチローの変名である。斎藤茂吉の歌集「寒雲」には「鼠の巣片づけながらいふこゑは 『ああそれなのにそれなのにねえ』」と詠まれるほどの人気であった。他に作曲者の古賀政男がレコーディングで鳴咽したという「軍国の母」、150万枚とも いわれる15年の「吉良の仁吉」などのヒットがある。ブロマイド売り上げが1位となるほどの人気を誇った。18年には「シャンラン節」を吹き込む。戦後は 女剣劇の中野弘子とのコンビで共演。30年代後半から神経症に悩み、芸能活動を退く。晩年は深川の老人ホームむつみ園で起居した。平成8年5/29午前3 時15分、大腸ガンで江東区の病院で死去。本名は久保染子。弟の芸人、深見千三郎はビートたけしの師匠である。

 

ミッキー松山(1912- )
大連生まれ。昭和10年に歌手デビュー。12年の「セントルイス・ブルース」などを吹き込む。

 

三波春夫(1923-2001)
新 潟出身。父の事業の失敗から、小学校を卒業後に上京。米屋や魚河岸で働いた。昭和14年より浪曲を勉強し、15年に南条文若としてデビュー。その後、19 年に出征して、4年間のシベリア抑留生活を送る。復員後は社会主義浪曲などを演じていたが、浪曲の衰勢に見切りをつけて32年に三波春夫として歌手デ ビュー。「チャンチキおけさ」「船方さんよ」が大ヒット、同年の「雪の渡り鳥」もヒット。その後も順調にヒットを飛ばし、38年には古賀政男が三橋美智也 を想定して作った「東京五輪音頭」の競合に競り勝って最大のセールスを上げた。45年には万博の「世界の国からこんにちは」を歌い、国民的歌手、お祭り男 の面目躍如であった。57年には芸術祭賞最優秀賞を受賞。紅白連続出場記録などを誇り、36年の司会者宮尾たかしとの掛け合いの中から生まれた「お客さま は神様です」の台詞は流行語となった。その派手な着流しスタイルは紅白でサザンオールスターズが物真似をしたほど。平成4年には電気グルーヴとジョイント して自らの持ち歌をハウス仕立てにして歌うなど、新しもの好きの精神は不滅であった一方で、晩年は日本会議に参加しての右寄りの発言なども目立った。12 年暮に入院。「逝く空に桜の花があればよし」との句を残し、13年4/14午後4時5分、前立腺ガンで死去。本名は北詰文司。住まいは中野区江古田3丁目 だった。ショーと芝居という歌手興行のスタイルを確立した事でも知られ、万博の際にはリベリアで切手にもなった。付き人が着物を畳む際に思わず「無法松の 一生」を口ずさむと足蹴にしたなど村田英雄とは終生、ライバル関係にあった。俳優の三波豊和は子息。
  昭和32年   チャンチキおけさ
       船方さんよ
       雪の渡り鳥
昭和34年   大利根無情
昭和38年   東京五輪音頭
昭和45年   世界の国からこんにちは

 

三橋美智也(1930-1996)
北 海道の上磯出身。5歳から母に民謡の、伯父に津軽三味線の手ほどきを受ける。11歳で全道民謡コンクールに優勝。小学校卒業後に、鎌田蓮道に三味線を学 び、白川軍八郎に津軽三味線を学び、民謡一座の歌手として巡業をしてまわる。昭和25年に20歳で上京し、昼に中学、高校に通いながら、夜は働く生活を続 ける。28年、民謡の弟子のレコード吹き込みに立ち会ったところ、美声を認められてスカウトされる。29年に「酒の苦さよ」でデビュー。30年に「おんな 船頭唄」が大ヒット。31年には「リンゴ村から」「哀愁列車」が、33年には「夕焼けとんび」がヒット。その後も七尾城をモデルにした「古城」や「達者で ナ」「武田節」「星屑の町」など次々にヒットを連発し、テレビのどのチャンネルをまわしても三橋美智也が映っているとまでいわれた。47年にはディスカ バージャパンブームにのって、民謡と歌謡曲を融合したリサイタルを試みて芸術祭賞優秀賞を受賞。 53年には若年層の間で突然の「ミッチーブーム」が起こり、ラジオのディスクジョッキーなどをつとめた。58年には史上初のレコード総売上げが1億枚を突 破、民謡三橋流を起こし、門下に細川たかしなどを配したが、ホテル経営の失敗や声質が衰えるなどの不幸もあった。平成7年10月に滋賀県内のゴルフ場から の帰途、大阪の西成区北里東の路上を走行中の車中で意識不明となり、8年1/8午前11時30分に大阪府阿倍野区の病院で多臓器不全で死去。本名は北沢美 智也。住まいは世田谷区南烏山5丁目だった。同年に勲四等瑞宝章を受章。
  昭和30年   おんな船頭唄
       あの娘が泣いてる波止場
昭和31年   リンゴ村から
       哀愁列車
昭和33年   夕焼けとんび
       赤い夕陽の故郷
昭和34年   古城
昭和35年   達者でナ
       一本刀土俵入
昭和36年   武田節
昭和37年   星屑の町

 

三原純子(1920-1958)
飛騨高山出身。昭和14年にデビュー。17年「南から南から」で大ヒット。戦後は胸の病気を患い故郷の岐阜で療養生活に入る。31年には夫の楠木繁夫が自殺、その2年後の33年に亡くなった。

 

三船浩(1929- )
新潟出身。昭和31年に「男のブルース」でデビュー。柔道三段の腕から、三船久蔵にちなんで芸名をつける。

 

宮川はるみ(1914- )
シアトル生まれ。兄はリキー宮川。昭和8年に来日し、10年に「すみれ娘」で歌手デビュー。多くのジャズを吹き込む。

 

宮城まり子(1928- )
東京出身。昭和25年にレコードデビュー。「ガード下の靴みがき」などがヒットしたが、34年に女優に転向。43年にねむの木学園を創設。吉行淳之介の愛人としても知られる。

 

村田英雄(1929-2002)
佐 賀出身。浪曲師の家系で、4歳から酒井雲の弟子の酒井雲坊として九州を巡業して歩く。昭和26年に上京し浪曲界で次第に頭角を現す。29年には村田英雄に 改名。しかし浪曲は次第に衰勢となってゆくジャンルでもあり、三波春夫の浪曲師から歌手への転向の成功に触発されて、ギターとアコーディオンを使用した新 しい浪曲スタイルを演じていたところを古賀政男にスカウトされて門下に。33年に「無法松の一生」でヒット。34年にはリメイクの「人生劇場」でヒットを 飛ばす。36年には作詞家の西条八十の許に通い、船村徹の作曲による「王将」が150万枚の戦後初のミリオンセラーの大ヒット。村田の独断に古賀政男は激 怒し、しばらく門前払いが続いた。30年代には東映の任侠映画にも数多く出演した。その後、紅白などでの三波春夫との不和を噂されたり、ビートたけしがラ ジオ番組で村田の行動を誇張して発言したために人気が再度沸騰するなど話題を撒いたが、平成7年8月には糖尿病の悪化で血性心不全で倒れる。これと前後し て親しかった春日八郎や三橋美智也、そして最愛の妻が次々に先立つなどの不幸にも見舞われた。12年1月には左足を切断、6月には右足を切断。14年 5/22に入院、6/13午前9時52分、肺炎で死去。本名は梶山勇。住まいは大阪府門真市栄町1丁目だった。死の数日前にスポーツ報知が誤って訃報を出 すなどの出来事もあった。レコード会社の移籍で干されていた尾形大作の復帰をバックアップするなど後進に温かい人柄だったが、「無法松の一生」を無断で 歌った藤圭子には烈火の如く怒るなど礼儀も人一倍厳しい一面もあった。
  昭和33年   無法松の一生
昭和34年   人生劇場
昭和36年   王将
昭和39年   皆の衆
昭和42年   夫婦春秋

 

毛利幸尚(1902- )
昭和4年に歌手デビュー。「進軍の歌」などを吹き込み、その後は新宿のムーラン・ルージュの舞台などで活躍する。