読書シリーズM「昭和の歌100」小西良太郎

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『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』 小西良太郎

 

小西良太郎:昭和11年(1936年)東京葛飾・堀切に生まれ、疎開先の茨城県島名村(現つくば市)で育つ。

水海道第一高等学校卒業。スポーツニッポンの“雑用係”を経て音楽担当記者になると、歌い手ばかりでなく作詞家・作曲家など製作陣にも密着。芸能面を充実させ、スポニチを同業他紙を圧する媒体に育てた。八代亜紀「舟歌」「雨の慕情」、坂本冬美「夜桜お七」、五木ひろし「凍て鶴」等のプロデューサーでもあり、1991年から7年間日本レコード大賞の審査委員長を務めた。2000年に(64歳で)スポーツニッポン新聞社を常務取締役で退職してからは、俳優としても活躍する。

 

自選の昭和の歌100曲にまつわる豊富なエピソードと、その顔の広さには驚くばかり・・・
印象に残った部分を私の忘備録から引用・・・

 

【3】悲しい酒/美空ひばり(石本美由紀作詞、古賀政男作曲)
 ――涙と熱唱 不思議なメカニズム

 没後何年経っても、ひばりは五十二歳のままでテレビに登場する。追悼番組が後を絶たないのだ。その画面で僕らは、涙ながらに「悲しい酒」を歌う彼女を見る。さまざまな感慨を呼び起こすシーンだ。歌うひばりの頬を大粒の涙が流れる。彼女は悲恋の主人公になりきり、その真情がひたひたと聴く側の僕らに伝わる。“絶唱”と呼んでもいい境地だろう。しかし、ふつう涙は声をくぐもらせる。いわゆる涙声で、そのまま歌い続けたら、必ず歌唱は崩れるものだ。しかしひばりの場合、そうはならなかった。涙は涙、歌は歌、見た眼と聴いた耳には、それぞれが鮮やかに別々のまま、渾然一体の情趣を作りあげる。名手と呼ばれた人の表現技術の一つか。
「歌いながら、子供のころのとても辛かった場面を思い浮かべているのよ」
 ひばりが歌唱の秘密をそう語ったことがある。
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【43】チャンチキおけさ/三波春夫(門井八郎作詞、長津義司作曲)
――屋台酒がおちこぼれの胸を灼く
 東京に憧れて集まる若者たちには、一旗揚げる夢があった。壮年の男たちはもう少し現実的で、農閑期の現金収入が狙い、言うところの出稼ぎである。昭和三十年代、そんな男たちで東京の人口は急激に増加したが、思い通りの成功を手にしたのは、ほんの一握りの人々。残る大多数は夢と現実のギャップを突きつけられ、帰るに帰れない故郷をしのんだ。
 月がわびしい路地裏の、屋台の酒のほろ苦さ・・・
 三波春夫の「チャンチキおけさ」のヒットが、そんな地方出身者の胸を灼いた。知らぬ同士が小皿叩いて歌うのは故郷の歌。コップ酒にそっと浮かべるのは見果てぬ夢・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・途中略・・
スポニチのボーヤ(入社当時の自分)は、小分けにした原稿の束を走って運ぶことが主な仕事、二階の編集部から一階の工場へ、ひと晩に何百回も往復する。ふつうの新聞社ではシューターという機械が運ぶ原稿を、貧乏会社のスポニチは人力である。輪転機はごうごうと一晩に何度か回ったが、町ではほとんど新聞を見かけない部数の、この会社の草創期だった。
 内勤の先輩記者は整理部の所属。記事を取捨選択、紙面をレイアウトする縁の下の力持ちセクションだが、新米は上司の怒号に追われてうろたえるばかり。ところがボーヤは、工場の腕利き職人と下積同士の懇意な間柄、新米内勤記者の手助けを彼らに頼む知恵や動員力を持っていた。そのうえ数人が“頭”の指揮下でグループを作る。社員とは別の命令系統で動く自主的集団。ボーヤの機嫌と手加減次第で、内勤記者の仕事は影響を受ける。だから新米の彼らは給料日になると、それとなく僕らを誘い、よしみを通じようとした。
 別の日の上野公園。ガード下の行きつけのバー「アムール」の小柄な娘、愛称ウサギを僕は首尾よく誘い出す。ところが「活動(映画)でも行くか」と言った僕の茨城訛りを、彼女は「カツ丼でも行くか」と聞き違える。何とも不粋な誘いにムッとする相手と懸命に釈明する僕、ややあってウサギは、
「良ちゃん、優しすぎるんだよね」
 と、謎の一言を残して身をひるがえした。西郷隆盛の銅像の下で、僕はわが身に起こったロミオとジュリエット上野版に憮然とする。その夜のドジな顛末を噛みしめながら、一人で飲んだ屋台酒のBGMはやはり「チャンチキおけさ」だった。

 

【68】昔の名前で出ています/小林旭(星野哲郎作詞、叶弦大作曲)
―― 一本の電話が生んだヒット曲
 ホステス嬢からの電話。新宿から鞍替えしたけどこっちへも遊びに来てよ・・・と言う。
声に聞き覚えはあるが顔と名前が思い浮かばない。「何て名前で出てるの?」と聞いた星野哲郎に、相手は「前と同じよ」と答えた。
≪昔の名前で出ています・・・・か≫
 メモに書きつける星野。のぞき込んだ仲間の作詞家八反ふじをが飛びついた。いい歌になるから呉れと言う。星野が断ると「それなら売ってくれ」と相手はしつこかったが、星野はまた首を横に振った。
  ≪京都にいるときゃ忍と呼ばれたの 神戸じゃ渚と名乗ったの・・・≫
小林旭が歌って昭和五十年に出た「昔の名前で出ています」の歌い出し二行分である。名前を変えながら盛り場を転々とするホステスが主人公。各コーラスをタイトルと同じフレーズが締めるネオン街慕情ソングだ。歌詞の三番に、主人公がボトルに書いた名前が「ひろみ」と出てくる。これがどうやら彼女の昔の名前らしいのだが、例の大宮の女性を思い出してのものとは思えない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・以下略・・・・・・

 

【昭和への献辞】
美空ひばり (平成元年六月二十四日、間質性肺炎による呼吸不全のため順天堂大学病院で死去。五十二歳。本名加藤和枝)
 美空ひばりの本葬は、日本コロンビア、コマ・スタジアム、東宝の三社合同葬(葬儀委員長望月和夫日本コロンビア社長)として、7月22日午後1時から、東京青山葬儀所で営まれた。
「大衆が生み、支えてきたひばりだから、大衆の手に返したい」という基本的な考え方の全国葬。本葬会場をメインに、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、高松、福岡の七会場にも祭壇が設けられ、衛星中継で同時進行する画期的な試みで行われた。全国で十万人もの弔問の人々が動き、女性歌手としては初めて国民栄誉賞に輝いたひばりならではの“お別れ”になった。
 青山会場。髪をアップに結った森昌子のうなじが、小刻みにふるえた。その横で和田アキ子の肩ががっくりと落ちている。下積生活が育てた芸をひばりに「いいねえ」と言ってもらった泉ピン子が泣きじゃくる。その背をなでているのは岸本加世子で、この人はひばりが亡くなった日からずっと、青葉台の家へ通い詰めだった。すすり泣きが続く。振り向けばこまどり姉妹や小林幸子、その列の端には、やつれた顔の近藤真彦がいた。
 美空ひばりの遺影は、心なしかほほ笑んで、そんな後輩たちを見おろしていた。十万本の紫の花で飾られた祭壇は、飛翔する不死鳥のイメージ。その前で弔辞が続く。「僕らは目標を失った」と北島三郎。「もっと長く歌って欲しかった、無念だ」と王貞治。「和枝さんと、慣れた呼び名であなたを送る」と萬屋錦之助。「もう友だちは作らない。後から私も行くからね」と中村メイ子。「あえなく消えた、美の一生だった」と森繁久彌・・・・。
「さようなら」よりは、圧倒的に「ありがとう」の五文字が多かった。昭和を歌い尽したキャリア、空前絶後の実績と足跡、私生活を捨てた修羅の芸、筋を重んじ情にもろかった人柄・・・と、参列した人々はみな、同じ思いでひばりをしのんだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・途中略・・・・・・
関口範子さん、斎藤千恵子さん、辻村あさ子さんの三人が、指名焼香の最後に呼ばれた。葬儀の間中、ハンカチを目から離せなかったこの人たちは、ひばりの身の回りの世話をし、その最期を見守った。十代のころから女王に仕えて、半生を捧げることを誇りにして来た人たちだった。生涯黒子で・・・・・と心に決めていた彼女たちの前で“ひばりの時代”の緞帳が静かに降りる。
 親族を代表する形で、実妹の佐藤勢津子さんがいる。喪主として息子の和也氏が、参列者に会釈を返す。ひばりの実弟哲也氏の子で、ひばりと養子縁組をしていたこの十七歳の少年は、加藤家とひばりが遺したものすべてを、これから支えていく覚悟でいる。
・・・・・・・・・・・・・・以下略・・・・・・・・