ネットの拾い物C「本当の野口英世とは・・」

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「勢蔵の世界」から転載

野口英世と母シカ

 

シカは、自分のせいでわが子、清作(後の野口英世)に大火傷させて不自由な体にしたことを悔やみ、農業以外の仕事をできるようにと、清作を学校に出すために学費を懸命に稼ぎました。昼間は百姓を、夜に猪苗代湖でエビ取り、それに大きな荷物を背負い猪苗代と若松の間の五里(約二〇キロメートル)の坂道を往復した。
 清作は、母のその姿を見て、一生懸命勉強しました。ときには、清作も油代を節約するために旅館の風呂(ふろ)たきを手伝って、その明かりで本を読みました。
 シカが清作の猛勉強ぶりを見て心配すると、
 「おっかさんは男まさりの仕事をしているのに、おれがこのくらいのことすんのは当たり前だべ」
と母をねぎらうのでした。
 清作が三ツ和小学校に通っていた11歳のとき、校長先生から先生の代わりに教壇に立って教えてみないかといわれたことを聞いたシカは、清作に新しい洋服を買い与えました。洋服など村の誰も着ていない時代に、シカは頑張った清作に精いっぱいのことをしてやったのです。
 明治29年(1896年)、清作が上京して医師資格の受験勉強をしていたときも、シカは、清作が頑張っているから自分も負けられないと、近くの助産婦さんを手伝って助産婦の資格を取ったのでした。
 やがて清作は、医師の試験に合格すると英世と名前を変えて、前にも増して勉強に励みました。その後、渡米し、医学の研究成果を上げてノーベル賞の候補になりました。
 明治45年(1912)二月、忙しい日々を送る英世のもとに、シカから手紙が届きました。英世は、母に会いたくて手紙を読んで涙を流しましたが、研究が忙しくて帰国をすることができませんでした。
 3年後の大正4年(1915)5月、友人から英世のもとに一通の手紙が届きました。それは、シカの体が弱っていることや今会わないと二度と会えないことなど、万難を排して帰国をすすめる手紙でした。同封してあったシカの年老いた写真を見て、今、母に会わなければ一生の悔いを残すと思った英世は、15年ぶりの帰国を決意しました。
 郷里に戻った英世は、せめてもの親孝行のつもりで東京や伊勢、関西を一緒に旅行したのでした。
 立派になった英世を見てシカは、
 「立派なお前の姿を見れたし、竜宮城に行った浦島太郎のようで大変幸せだよ。心残すことはねえ」
と、感謝したのでした。
 それから3年6ヵ月後の大正7年(1918)11月22日、英世が黄熱病(熱帯地方特有の伝染病の一つ)の研究で大きな成果を上げて、南米のエクアドルからアメリカのニューヨークにあるペンシルベニア駅に到着したとき、英世はシカの死を知らされました。悲しみのあまりホームにひざまづいたと伝えられています。
 シカは当時流行したスペイン風邪に倒れたのです。自分が病気だと知りつつ助産婦の仕事を続けたシカは、無理がたたって急に亡くなったのでした。
 その後、人の命を守るために一生懸命に働くことを心に誓った英世は、周囲の反対にもかかわらず黄熱病の研究でアフリカに渡って研究に没頭します。しかし、研究中に黄熱病に感染して、世界の人々に惜しまれながら、昭和3年(1928)51歳でこの世を去ったのでした。
 ニューヨークにある英世の墓石には、「日本の猪苗代に生まれ、アフリカのゴールドコーストで死亡。医学に献身して、人類のために生き、人類のために死す」と刻まれています。 『伝えたいふるさとの100話』より

 

「感動話」としてはこれで充分なのである。が、いらぬことながら解説を少々。
「野口英世は有名な割には今日の評価の耐えるものが少ないと評されることがある。梅毒スピロヘータの純粋培養は、追試が成功しなかったことから後に否定されている。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定、黄熱病の病原体特定とワクチン開発といった業績もまた、後年否定された。発表された200余の論文に関して現在も通用するものは殆どなく、コッホやパスツールなどに比しあまりに否定されたものが多い。現代においてはその医学的業績を疑問視し評価しない専門家も多い」(フリー百科事典「ウィキベディア」より)
まあ優秀な医学者には違いないでしょうが、相当な放蕩癖(遊廓などでの)があったようで、野口先生は学生の頃から遊びまくっているようです。友人、知人にかなりの借金を重ねています。アメリカに渡ってもその癖は直らず、「ノグチに金を貸すな」といわれていた。帰国したくても金がなく、日本の製薬会社に泣き付き、借金しての帰国であったという。
彼は坪内逍遥の小説「当世書生気質」を読み、自堕落な生活を送る主人公「野々口精作」と自分の名前「野口清作」が似ているばかりか、その行動(遊郭等での放蕩癖)がそっくりのため、ショックを受け「英世」と改名する。この本が発刊されたのは1885年で、野口は当時7歳だから野口英世をモデルにしたのではない。坪内逍遥は後に「キング」誌のエッセイに「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったことを光栄」との旨を記したが、野口の放蕩癖は改名によって直ることはなかったようだ。
著名な人物ともなれば毀誉褒貶は仕方ないことでもあるが、これらが真実とすれば尊敬される人物像が色あせたものになってしまう。しかし、母の献身的な愛情だけは感動ものであり、自身が黄熱病に冒されるリスクを顧みない現地での研究活動は、すばらしいものである。