涙シリーズG佐久間艇長の遺書

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ネットの拾い物ですが・・、日本人は凄い!
佐久間艇長の遺書
 沈没した第6潜水艇が発見されたのは明治43(1910)年4月16日午後3時38分、広島湾の沖合約2千メートル、水深約15メートルの海底だった。艇首を上げ、艇尾は泥の中だった。前日朝に出発してから、一日半が経っていた。

 引き揚げ作業は困難を極めた。2機の起重機で吊り下げたまま浅瀬に運び、翌17日明け方から、艇内の海水と漏洩ガソリンをポンプで排出し、換気の後、ようやく艇内に入ることができた。
 乗員はそれぞれの持ち場で倒れていた。佐久間艇長は司令塔の真下で、仰向けになっていた。艇首の魚雷発射管左右には、前後の扉を閉じて海水の浸入を止めようとしたのか、欲山一等兵曹と、遠藤一等水兵が倒れていた。
 原山機関中尉は、海水と電池の電液の混合による有毒ガスの発生を懸念したのだろう、二次電池の前で事切れていた。吉原一等水兵、河野三等機関水兵、堤二等兵曹、山本二等機関兵曹は手動ポンプの付近に集まって倒れていて、交代でのポンプ排水中に絶命したのだった。

 その他の乗員を含め14名全員がそれぞれの持ち場で、息絶えるまでなんとか潜水艇を浮上させようと努めていたのである。
 当時は潜水艇開発の初期で、海外でも同様の事故が相次いでいた。イギリスでは1904年、1905年、フランスでも1905年に潜水艇が沈没。これらの事故では、いずれも乗組員がハッチに殺到し、折り重なるようにして死亡しており、ある例では先を争って殴り合いをした形跡まであった。
 それだけに、乗組員全員が最期まで持ち場を離れずに職務を果たそうとしたこの事件は欧米でも大きく報道され、各国から弔電や弔慰金が海軍省、海軍大臣に多数寄せられた。
 事件当時モスクワにいた日本大使館の駐在武官は、日本の海軍省に次のような報告を電文で送っている。

 

 我潜水艇不幸に対する露国人士の感想に関する件
 第六潜水艇の不幸はロイター通信のロンドン電報により直ちに当地に伝わり、各新聞これを掲載しかば一般にしれわたり、海軍軍人と否とに区別なく何れも口を極めて乗員最後の勇壮なる行為を賞賛し、中にはこの精神がため日本人は強きなりとまで語る紳士あり。

 

 ロシアが日本と戦って敗れた日露戦争から、わずか5年後。憎き仇敵という感情が各層に残っていただろうが、第六潜水艇の乗員の「勇壮なる行為」はそのロシア人の胸を打ったのである。「この精神がため日本人は強きなり」とは、国家予算でわずか10分の一の小国日本が大国ロシアを倒した事を踏まえての実感だろう。
殉職した佐久間艇長以下の遺体は、4月17日午後に収容された。福井県小浜中学の後輩で、佐久間に憧れて、海軍入りした倉賀野明中尉は、その夜、遺品の整理中に佐久間の手帳を見つけた。
「艇長ほどの人、必ず何か最後に書き残しているはず」と思い、手帳を開くと、大きな字で書き殴ったようなメモが見つかった。有毒ガスがたまって、呼吸が苦しい中、司令塔ののぞき穴から漏れてくる、かすかな明かりを頼りに書いたものだった。
 それは次のような文章で始まっていた(スペースは改行を示す)。

 佐久間艇長遺言

 

小官ノ不注意ニヨリ 陛下ノ艇ヲ沈メ部下 ヲ殺ス、誠ニ申訳
ナシ、サレド艇員一(ママ) 一同、死ニ至ルマデ 皆ヨクソノ職ヲ守
リ沈着ニ事ヲ処 セリ、我レ等ハ 国家ノ為メ職ニ
斃レシト雖モ唯々 遺憾トスル所ハ天 下ノ士ハ之ヲ誤リ以
テ将来潜水艇 ノ発展ニ打撃 ヲ与フルニ至ラザル
ヤヲ憂フルニアリ 希クハ諸君益々 勉励以テ此ノ
誤解ナク将来 潜水艇ノ発展 研究ニ全力ヲ
尽クサレン事ヲ
サスレバ我レ等 一モ遺憾トスル所ナシ、

 

 日本海軍が最初に配備した潜水艇は、アメリカから購入した5隻だった。明治38(1905)年、この事故からわずか5年前のことである。これらが第1〜第5潜水艇と呼ばれた。
 当時の最新兵器であるだけに、乗組員は知識・技能ともに優秀な志望者から選ばれていた。佐久間は当初から、志願してこの世界に飛び込み、第1、第2、第3潜水艇の艇長を歴任していた。
 アメリカから購入した潜水艇を参考として、翌年、国産第1号として建造されたのが、この第6潜水艇だった。アメリカ製に比べて、小型で操縦も難しく、故障が多かった。海軍一の難艇で「ドン亀」と呼ばれていた第6艇を乗りこなすために、さらに選りすぐりが集められていた。その艇長に抜擢されたのが佐久間だった。
 機関長の原山政太郎中尉は幼少の頃から「神童」の誉れ高く、海軍機関学校を首席で卒業し、24歳にして機関中尉となっていた。鈴木新六上等機関兵曹は、第2、第4潜水艇の内燃機関の故障を完全修理したことから、「内燃機関の神様」の異名をとっており、上層部より特に請われて、第6潜水艇に配属となった。その他の乗員も同様に、海軍の中でも選りすぐった人材であった。
 佐久間艇長の遺書が、まず自分達の起こした事故が「潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるよう」という事から始まっているのは、彼らの潜水艇発展にかけた志があったからである。
 そして、なんとしても潜水艇を浮上させようと、最後の最後まで死力を尽くしたのも、自らが助かりたい、という気持ちよりも、ここで事故を起こして日本の潜水艇技術の発展に打撃を与えてはならない、という使命感であったのだろう。
これら選りすぐりの乗員によって、4月11日から14日まで各種の訓練が行われていた。13日の「水雷発射訓練」では魚雷4回連続発射を実施し、全弾を標的に命中させるという見事な成績を上げた。14日は長距離潜行訓練で、約15キロ、2時間30分という第6潜水艇にとって過去最高の記録を達成した。
 15日に取り組んだのが「半潜航」だった。潜水艇は水上航走では通常の艦船と同様、ガソリン・エンジンで動く。水中に潜ると、ガソリン燃焼に必要な酸素を得られないので、蓄電池を電源としたモーターに切り替える。ところが当時のモーターは出力が弱く、蓄電量も少ない。速度を半分にしても航続距離は10分の1以下となってしまう。
 前日に出した最高記録でも潜水航走約15キロでは、よほど敵艦に近づいてから潜って攻撃せねばならず、仕損じて逃げても、電池がつきたら、水上航走で標的になるだけである。
 打開策と考えられていたのが半潜行だった。これは水面下3メートルほどに潜り、司令塔から突き出した通風塔から空気を取り入れて、ガソリンエンジンで長距離を航走する。しかし通風塔の開口部は海面上わずか1メートル弱しか出ていない。これでは潜水艇の前後左右のわずかの傾きにより、通風口から海水が浸入する。
 佐久間艇長の手帳では、詳細に事故の経過を報告しており、それをもとにした技術的検証で、通風口から海水が浸入し、それにより浮力を失って沈没、さらに通風口のバルブを閉めようとしたが、そのチェーンが外れるという事故が重なって沈没に至ったと結論づけられた。

 

 佐久間艇長以下は、世界でも最先端の航走法に挑戦したが、いまだ不十分であった設備技術の欠陥により沈没したのである。佐久間艇長の手帳に、事故の経過の詳細が記載されていたのも、この事故の原因を究明して、後進にさらに挑戦を続けて欲しいという願いからであった。
事故の詳細を報告した後、佐久間艇長は次の言葉で結んでいる。

 

(下の写真は、遺書の最後の部分である)

謹ンデ
陛下ニ 白ス、我部下ノ遺 族ヲシテ窮 スルモノ無カ 
ラシメ給ハラ ン事ヲ、我ガ 念頭ニ懸ルモ ノ之レアルノミ

 

 

左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)

 

一、斎藤大臣  一、島村中將  一、藤井中將  一、名和中將  一、山下少將

 

一、成田少將  一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ)  一、小栗大佐 

 

一、井手大佐  一、松村中佐(純一)  一、松村大佐(龍)  

 

一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ)  一、船越大佐   一、成田綱太郎先生 

 

一、生田小金次先生

 

十二時三十分呼吸非常ニクルシイ

 

瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ ガソリンニヨウタ

 

一、中野大佐

 

十二時四十分ナリ

 

 

 

 その間にも、「(気圧高マリ 鼓マクヲ 破ラルゝ如キ感アリ)」あるいは、「十二時三十分 呼吸非常ニクルシイ」と書き、最後に、「十二時四十分ナリ」と結んでいる。

 

「部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はん事を」という佐久間艇長の願いは、多くの国民の心を揺り動かした。海軍のみならず、民間でも朝日新聞を中心とした寄付金募集が行われ、最終的に5万6千円(現在価値にして、推定2億円)が集められた。
 そのうち3万5千円が14人の遺族に等分して手渡され、残り2万1千円を資金として、呉市の鯛之宮神社に「第6潜水艇殉難慰霊碑」が建立された。
夏目漱石は、佐久間艇長の遺書の写真版で、その全文を読んで、「文芸とヒロイック(JOG注:英雄的行為)」という一文を書いた。
 当時の文学界は自然主義と称して、現実世界の苦悩を書く事が流行っており、そういう人々は英雄的行為を軽蔑したり、虚偽呼ばわりしがちであった。漱石は、それに対して言う。

 

 余は近時潜航中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイックなる文字の、我等と時を同じくする日本の軍人によって、器械的の社会の中に赫(かく)として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。[1,p154]

 

 自然主義を、戦後の今日の「平和主義」に置き換えてみれば、漱石の主張は現代にも通ずる。そういう主義に凝り固まった人々には、佐久間艇長の「ヒロイック」な面は「軍国主義」としか見えないだろう。
 歌人・与謝野晶子は、この事故と佐久間艇長の遺書に触れて、「挽歌11首」を詠んでいる。そのうちの5首を紹介しよう。

 

 瓦斯(ガス)に酔ひ息ぐるしとも記(しる)しおく沈みし艇(ふね)の司令塔にて
 武夫(ものゝふ)のこゝろ放たず海底の船にありても事とりて死ぬ
 海底の水の明りにしたためし永き別れのますら男の文
 水漬きつゝ電燈きゑぬ真黒なる十尋の底の海の冷たさ
 海に入り帰りこぬ人十四人いまも悲しきものゝふの道

 

 与謝野晶子は、戦後の教科書では「反戦歌人」などと教えられているが、真実はこのように「悲しきものゝふの道」への万感の思いを歌い上げた歌人であった。

 

「第6潜水艇殉難慰霊碑」が建立された呉市の鯛之宮神社では、毎年追悼式が行われている。平成23(2011)年に第100回を迎え、この年から小学6年生の「作文朗読」が始められた。
 呉市教育委員会の協力により、各小学校で先生が佐久間艇長と遺書のことを生徒に話し、感想文を書かせる。その中で優秀な作品を追悼式で本人が読む。
 その最初の年に選ばれた一人が、呉市立呉中央小学校6年の谷川舞さん。舞さんの父は潜水艦『ふゆしお』に乗務しており、まさに佐久間艇長の後継である。
 舞さんは、心に残ったこととして、「沈んでいく船の中で、自分の持ち場を離れずに、力を尽くしたこと」「自分のことだけを考えて行動しなかったこと」「みんなのことを思う佐久間艇長の思いやり」の3つを挙げ、最後に東日本大震災に関連して、こう結んでいる。

 

今、日本では、東日本大震災という、かつてない大きな地震によって、たくさんの方々が、大変な状況の中で生活をしておられます。その中でも、佐久間艇長さんのような方々がたくさんいることを思い出しました。
食料を譲り合い、自分が持っている物を分けたり、子どもや高齢の方を優先したり、自分も苦しいけれど、みんなのために譲り合う姿に、心を打たれました。
私がテレビで見た消防士の方は、津波が来るぎりぎりまで、車で声をかけて回ったそうです。結果、亡くなられましたが、最後まで人を思いやっていた方のことが、ずっと心に残っていました。
 第六潜水艇の学習をして、この事故は百年も前のことですが、今の日本にもその心は受け継がれていることを感じました。私たちの未来にもこの日本のよさを伝えていきたいです。そのためには、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考え責任をもって行動したいです。[1,p68]

 

 100年後の子孫のこの朗読を、草葉の陰の佐久間艇長以下14人の英霊は、さぞや嬉しい想いで聞いていたに違いない。
(文責:伊勢雅臣
YouTubeでも解説されている・・!