読書シリーズE「新幹線を走らせた男」

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こうしてあなたと出会えたのも何かのご縁です、ぜひ「WB工法」と、「エアープロット」いう言葉を覚えて帰ってください、いつか必ずあなたのお役に立ちます!長野の棟梁が考えた「換気扇を使わないで室内の湿気・VOC・臭気を排出」する工法と、白金担持触媒で「アレルギー源を無害化する」方法です。

 

「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 高橋団吉著
734ページ2段組みで読みでがあった。
私の故郷、愛媛に「坂の上の雲」の秋山兄弟以外にも自慢できる先達が居たことを知った。
十河信二(そごうしんじ、1884年4月14日 - 1981年10月3日)享年97歳。愛媛県新居郡中村(のちに中萩町、現在の新居浜市)に十河鍋作・ソウの二男として生まれる。第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年 - 1963年)。2期8年を全うしたのは十河だけである。
 71歳で静岡伊東の田舎でのんびりと余生を過ごしていた時に、だれも成り手のいなかった国鉄総裁として白羽の矢が立つが、年齢と健康を理由に固辞し続けていた。
三木武吉に「君は赤紙を突き付けられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か!」と説得され、「俺は不忠者にはならん!」と言い引き受けてしまう。
当時の国鉄は大きな事故や労働問題(ストライキ)で国鉄の信用は地に落ちていたが、十河は「鉄路を枕に討ち死にの覚悟で職務にあたる」という挨拶をして、信用の回復を第一目標とする形で引き受けた。
時には国会招致を代理に任せたりしてまでも全国の職場を激励して廻り「おやじさん」の愛称で親しまれる。
その、雰囲気を表すエピソードが以下である。
何度読んでも目頭が熱くなる・・(-_-;)

 

以下、私の忘備録メモから・・。

『十河信二は、昭和五十二年十月三日に、九十七歳で歿した。
菩提寺は、井の頭線西永福町駅近くの理性寺(りしょうじ)。

葬儀からまだ間もない、ある日のことである。
東京発博多行きひかり号の座席に、大きな風呂敷包みを抱えた初老の男の姿があった。
十河同族会(十河一族の集まり)の会長である。十河五男。
十河五男は、十河信二の本葬に参列後に、是非その遺影を高松まで持ち帰らせてほしいと願い出て、この日遺影の複写を手にして帰郷の途についた。
 はじめは、羽田から高松へ飛ぶつもりであったが、病床の十河信二がもう一度新幹線に乗ってみたい・・・としきりにもらしていたと聞いて、急ぎ飛行機をキャンセルして東京駅に向かった。
 同族会会長は0系のひかり号がホームを離れる前に、風呂敷包みをそっと解いて、遺影をホームのほうに向けた。列車がすべるように走り出して、多摩川を渡り、そろそろ新横浜駅を通過するかというころに、社内放送が流れた。
「・・・十河同族会の会長さま、ご乗車でしたら十二号車の車掌室までお越しくださいますようお願いもうしあげます・・・」
 なぜ、自分が乗車していることが知れたのか・・と不思議に思いながら車掌室をたずねてみると、肩に「専務車掌」というワッペンをつけた男に丁寧に一礼された。
「十一号車にご遺影の席を用意させていただきました。どうぞご利用ください」
 おそらく、東京駅の出発ホームで老総裁の遺影を見つけた駅員が、このことを鉄道電話で知らせてきたのであろう。
 十一号車のグリーン席には、遺影を安置するための小さな台が用意されていた。会長は遺影を台上にのせて、隣の席に腰をおろした。道中、少なからぬ乗客たちが遺影の前で足を止めて、みな深々と拝礼した。
 好天にも恵まれて、富士の山が美しく望まれた。
 名古屋駅が近づくころ、かの専務車掌があらわれて、このように告げた。
「ホームに職員がお見送りに出ております。お手数でございますが、ご遺影を今少し窓近くに掲げていただけませんでしょうか・・・」
 名古屋駅ホームには、駅長以下十数名の職員たちが整列して、最敬礼で遺影を迎え、そして見送った。
 京都駅でも、新大阪駅でも、姫路駅でも、最後の岡山駅でも同様のことが繰り返された。
 その専務車掌は、新大阪駅で降車した。降車する前に「お心づかいありがとうございます。せめてお名前を・・・」と会長が頭を下げた。
「いえ、それにはおよびません。十河総裁は新幹線の生みの親でございますから・・・」
 そう言って、足早にホームに走り出て職員一同の列のうしろに連なった。』

新幹線の完成

1964年10月1日、東京駅の東海道新幹線ホームで挙行された出発式には、国鉄は十河も島も招待しなかった。十河は追加費用の800億円の責任を取る形でこの1年半前に総裁を退任している。十河は自宅のテレビで見守っていたそうだが、当日10時からの国鉄本社での開業記念式典には招かれ、昭和天皇から銀杯を賜っている。しかし、後に十河や島が「新幹線の父」と呼ばれるに至り、マスコミが彼らを紹介する際には、必ずといっていいほど「国鉄は新幹線の開通式に彼らを招待しなかった」という説明をするようになったため、これは国鉄にとって痛恨事となってしまった。(wikiより)
十河が新幹線を完成することができたのは
1)当初の予算5年間で総額3千億円を、国会で予算を通すために、1959年に1972億円で国会承認を受け、 残りは政治的駆け引きで押しとおした
2)世界銀行から8千万ドルの借款を受けることに成功した
3)在来線が狭軌だったため、広軌の専用線で新たに建設することが必要であり、結果、安全な新幹線が完成した
4)世界的に普及していた「動力集中の機関車列車方式」を「動力分散の電車列車方式による高速鉄道」を採用した
等が挙げられるが、詳細は本書をご覧頂きたい。

 

以下
「新幹線を走らせた男国鉄総裁 十河信二物語」 高橋団吉著 より印象的な部分を抜粋

『島秀雄の「ムカデ方式」とは、鉄道用語でいえば、次のようになる。
「動力分散の電車列車方式による高速鉄道」
 電車は、動力すなわちモーターを各車両に分散して積むことができる。
 これに対して、世界的にもっともオーソドックスと考えられていたのは「動力集中の機関車列車方式」である。
 蒸気であれディーゼルであれ電気であれ、動力を持つ機関車が先頭に立って動力を持たない後続の車両群を引っ張る。
 この方式には、じつは、不合理な点が多い。
 なにより、先頭の機関車が重くなくてはならない。
もし軽ければ、どんなにパワーがあっても、機関車の動輪が空転してしまうだけで、後続の車両群を引っぱれない。つまり、牽引力のある機関車ほど重いのである。
 そのような重い機関車を走らせるには、線路も、路盤も、駅も橋も、高架線も頑丈につくらなければならない。当然、コストもかさむ。
 さらに、折り返し運転に手間がかかるというデメリットもある。終点についてから、先頭の機関車をはずして、側線を通して最後尾につけ替えなければならない。蒸気機関車であれば、ターンテーブル上で前後の向きも替えなければならない。
 島秀雄によれば、電車列車方式による高速鉄道の着想を得たのはずいぶん昔のことで、東海道新幹線開業の35年ほど前にさかのぼる。
 昭和12年に海外鉄道視察の旅に出かけたとき、オランダのロッテルダム付近のライン河を船で下りながら、川岸をトコトコ走る郊外電車をぼんやり眺めていて、ふと、こう思った。
 あのガタガタと走っている電車の長所をどこまでも伸ばしてやると、どんなで鉄道になるだろうか。将来の東海道線を走る超特急になるのでは・・・。
 オランダは大半が干拓地であるために、地盤が柔らかく、車重の重い大型機関車を走らせにくい。オランダの鉄道はおのずと、車重の軽くてすむ電車方式を中心に発達するしかなかったのである。
 島秀雄は、口数が少ない。懇切丁寧な言葉で説得することは、むしろ不得手である。国鉄技術陣にはピンと来ない人も多かったらしい。
 だが、家庭では妻の豊子や小さな子どもたちを相手に得意げにこう話した。
「つまり、ムカデなのさ」
・・・ムカデは「百足」と書くんだ。ムカデが体節ごとに足をもっているように、各車両に小型のモーターをつけて、それぞれ自分の足を動かしながらみんなで協力して走ればいいことはたくさんあるんだ。
 まず、すぐにギューンと加速できて、キュキューンとすぐに減速できる。バタンとレバー操作ひとつで逆の方向にも走りだせるから、折り返し運転も簡単になって、ラッシュアワーなみのダイヤだって組める。足が一、二本折れても走れるから故障にも強い。もちろん車両を軽くすれば、線路や橋なども簡単に安くつくることができる・・・。』

・・・・・・・・・・・・・・・・途中略・・・・・・・・・・

『昭和32年5月30日銀座山葉ホール、講演会「超特急列車 東京―大阪間三時間への可能性」の講演会が開かれた。
起動理論の星野陽一が、新しい広軌線に最新型列車を走らせれば時速200キロの高速営業運転ができると発表した。
「東京―大阪間に広軌新幹線を敷き、カーブは最小半径1500メートルに抑え、軽構造、低重心、空気バネを持つ電車列車を走らせます。平均時速150〜160キロ、最高時速210キロ。研究目標としては時速250キロを考慮に入れて、東京―大阪間の到着時間は三時間以内とします。」
在来線の平均時速は73.3キロ、最高時速95キロの当時である。
「・・・乗り心地は高級自動車なみで、在来の電車からは想像もできない快適なものとなります。」
ほほう。
会場はどよめきにつつまれた。
「・・・二年前の昭和三十年春に、フランスで鉄道の最高時速331キロが達成されています。ただし、高速試験用に改良された電気機関車一両が客車三両を牽引して、たったの一分半程度走行した記録にすぎません。日本の国鉄がめざしているのは、実用を前提とした超特急の開発です。もし実現されれば、まちがいなく、世界一の鉄道といえます。」
・・・会場全体は万雷の拍手に包まれた。』

 

『東海道新幹線は、開業当初「JAPANESE BULELET TRAIN」として世界に紹介された。しかし、いつのころからか「SHINKANSEN」が世界共通の呼び名として認知されるようになる。「日本の弾丸列車」の卓越した先進性ゆえである。その先進性は、島秀雄が技師長でなければ実現しなかったであろう。
東海道新幹線の先進性は、大きく二点ある。
一つは、鉄道をまるごと1セット新しくつくったことである。
線路、駅、トンネル、橋梁、車両のどれをとっても、在来のものは何ひとつ利用していない。
島技師長は、この願ってもないチャンスを最大限に活用しようとした。
 高速走行の可能なゆったりとした曲線。踏切が一ヶ所もない、防護柵で囲まれた専用線。社内信号システム。全線全列車を一つの司令室から集中制御するCTCシステム・・・。
 世界一の理想の鉄道を目指して、すべてをゼロから新しく発想することができたのである。
 狭軌(軌間1,067mm)鉄道の国に広軌(1,435mm)の超特急を走らせようとすれば、新しくまるごと一セットをつくるほかない。その意味では、狭軌の国ゆえに「SHINKANSEN」を生み出すことができたのだといえる。
 もし、後藤新平や仙石貢、島安次郎の活躍した時代に東海道が広軌に改築されていれば、これほど徹底した理想の超特急システムは誕生しえなかった。
 弾丸列車計画が中断されなければ、昭和三十年には東京―下関に広軌超特急が走っていたはずである。しかしその超特急は、単に広軌の高速列車であるというだけで、いまの新幹線とは似て非なるものになっていたと思われる。それは、十河総裁が最初にイメージしていたように、満鉄の特急「あじあ号」や、欧米のスタンダード・ゲージ(1,435mm)を走る数々の特急列車に似ていたであろう。
 東海道新幹線の成功にならって、1980年代以降、欧米の鉄道斜陽国があい次いで「BULLET TRAIN」を走らせはじめる。
 しかし、フランスのTGVもドイツのICEもアメリカのACELAも、専用線ではない。在来線を走るがために、スピードもダイヤも数々の制約を受ける。踏切も無数にある。事故の起こる確率も高い。しかし、いまさら専用線を新しく敷説するという不経済は、すでにスタンダード・ゲージの在来線を走らせている国では、不可能に近い。
 東海道新幹線のもうひとつの先進性は、「ムカデ方式」すなわち電車列車方式であったことである。
 当時、世界の鉄道界の常識は、機関車列車方式である。先頭に重たい機関車をつけて、後続の客車群を力づくで引っぱる。欧米の鉄道先進国の技術者たちは、どうしてもこの発想から飛躍できなかった。島秀雄はこれを「馬車鉄道以来の固定観念」と書いている。
 ムカデ方式の考え方は、いたって単純である。天才的ひらめきというほどのものではないし、複雑な思考の結果でもない。合理的に考え抜くことさえできれば、だれでもたどりつくことのできる普遍性を持っている。しかも、お手本は目の前にあった。電車は、都市生活者の足として世界中で走っていたのである。
 しかし、だれもやらなかった。
 島秀雄の独創といっていい。』

 

本書では「写真は一切使わない・・」をモットーに完成されたが、「どうしてもこの写真は紹介したい・・」として下記がエピローグに添付されている。

『写真の解説(週刊サンケイのグラビアページより)
十河信二(78歳)、島秀雄(60歳)、大石重成(56歳)
撮影されたのは、昭和37年の6月27日。

 この日の朝、雨上がりの鴨宮モデル線基地に「新幹線関東軍」の幹部たちが顔をそろえた。
 仮設ホームには、ピカピカの試作車両のB編成がスタンバイしている。
「よし、一周しよう」
と、おそらく十河信二が言い出して、B編成四両のまわりをあるき出した。
島秀雄と大石重雄がそのあとに従った。案内役は、モデル線区の田中隆造区長。
 十河信二は、正装である。銀座熊沢洋服店仕立ての黒のスーツ。真っ白なシャツには赤い蝶ネクタイ。くちびるをへの字に結んで、目を細めて虚空をみやりながら、感慨にふけっているようにみえる。
 新幹線総局長の大石重成は、つま先から頭髪までビシッと決めている。両腕を後ろで組んで、十河総裁の足元あたりを見つめながら、何ごとかを技師長に語りかけている。
 技師長の島秀雄は、その話に耳を傾けながら、カメラマンのほうに視線を泳がせている。この日は、島は頭からお気に入りのソフト帽を放さなかった。
 田中区長も、上等のネクタイで決めている。三羽ガラスと報道陣の間に入り、つかず離れずの位置をたもちながら細心の注意をはらっている。
四人は、雨にぬれたバラストの上を歩いた。ジャリジャリと鳴ったであろう。
 試作車両は、見るからに、新しかった。
「これで、やっとできるナ・・・」
あとは島技師長にまかせておけば、世界一の超特急をまちがいなく完成させるであろう。
 大石総局長には、工事完成という大難題が残っている。資金不足というアキレス腱もある。だが、この大仕事をまかすことのできるのは、この男しかいない。
新幹線を走らせた男・十河信二にとって、この小雨模様の鴨宮試験走行開始式こそ、一世一代の晴れ舞台であった。』