読書シリーズP「B面昭和史」

WB HOUSEのBlogへようこそ!”健康に拘る”営業の河野です。資料差し上げます!
こうしてあなたと出会えたのも何かのご縁です、ぜひ「WB工法」と、「エアープロット」いう言葉を覚えて帰ってください、いつか必ずあなたのお役に立ちます!長野の棟梁が考えた「換気扇を使わないで室内の湿気・VOC・臭気を排出」する工法と、白金担持触媒で「アレルギー源を無害化する」方法です。

 

『B面 昭和史』 半藤一利 平凡社

 

半藤一利
1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文芸春秋入社。
「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役などを経て作家。
「南京虐殺があった・・」などと言うのは気に入らないが、多感な時期を戦争の雰囲気が迫り、巻き込まれる経緯が庶民の目線で纏められている。

 

 

 

 

 

 

私の忘備録メモから一部をご紹介

・・・・・・・・・・・
昭和3年
同じ二日の女子八百メートルで銀メダルに輝いた人見絹江選手のことにもふれておきたい。
この決勝レースは大激戦であったらしい。それを観戦していた新聞記者がかいている。
「ほんとうの力走というのはあれであろう。一歩、一歩、骨を削り、命を縮めて[先頭に]近づいていく」
 一位のラケト選手を追い、十五メートルあった差を二メートルにまで縮め、ゴールイン。彼女のタイムは二分十七秒六の世界タイ記録であった。しかも、彼女は百メートル準決勝での敗北を無念に思い、負けず嫌いゆえに周囲がとめるのもきかず、生まれてはじめて八百メートルのレースを走ったという。
 そして三年後の昭和六年の八月二日、奇しくも日の丸を揚げたと同じ日に、乾酪性肺炎でこの世を去っている。享年二十四。まさしく、新聞記者のかくとおり「骨を削り、命を縮めて」走りに走りぬいた生涯であった。
 オリンピックのメダル数は、その時のその国の国力を示す、という言葉がある。昭和初期の日本の国力はざっとそんな程度であったのか。
 スポーツに関連してもう一話、他愛もないことながら――。わたくしは小学校一年生のはじめての運動会で、「いいですか、徒競走の号令は、“位置について、用意ッ・・・・・ドーン”と正式に決まっています。このドーンはピストルの音です。わかりましたね」と、先生にこんこんと教えられた記憶がある。以来、何の不思議も無く「ヨーイ、ドン」でやってきたが、あのとき、先生がこと改めて「正式に決まっています」といった理由が急に気になったことがあった。それで十五年ほど前に調べてみた。
 結果は、「ヨーイ、ドン」がスタートの合図として正式に採用されたのが(昭和)三五月二十六日。この日、明治神宮競技場で第一回全日本学生陸上競技大会がひらかれ、そのときに決められたとわかる。わたしが小学生になる十年ほど前で、そんなに昔ではなかったのである。
 ついでに調べてみた。明治十六年(1883)の東大の陸上運動会では「いいか、ひ、ふ、み」。大正二年(1913)の第一回全国陸上競技会では「支度して、用意」であった。なかには「よろしゅうございますか、用意」なんて時代もあったらしい。知っていても何の役にもたたないことながら、昭和改元とともにはじまったことが多いのにびっくりさせられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和8年
この年(昭和8年)の四月一日から国定教科書の全面的改訂が断行された。その「小学校国語読本」がいわゆる「サクラ読本」。第一頁が「サイタサイタ サクラガサイタ」ではじまる昭和一ケタ世代の教科書である。
 わたしがこの教科書を手にとるのはこの四、五年さきであるが、高学年になったときの教科書は、通信簿によると「修身」「国語」「算術」「国史」「地理」「理科」「図画」「唱歌」「体操」「手工」「操行」で、、女子にはこれに「裁縫」が加わっていたと思う。さらに国語は「読方」「綴方」「書方」にわかれ、算術は「筆算」「珠算」にわかれていたのではなかったか。そして成績は甲・乙・丙・丁で示され、「全甲」は優等生ということになる。
 悪ガキどもは通信簿をもらうとコソコソと教室の隅でいい合った。「オイ、お前、シャミセンはいくつあった?」「三つ」「何だ、俺より一つ多いじゃないか。」シャミセンとは甲のこと。乙はオシドリといった。「俺、操行がヘイタイだ」とはもちろん丙で、わたくしは残念ながら操行はヘイタイにもならず、小学校五年生まで丁のオタマジャクシで通し、おやじはそれをみて「ウム、お主は濠の者だなア」とほめてくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和8年
なにしろ妙なストライキ騒ぎで東京中が沸きに沸いていたからである。(昭和八年)六月十五日、世界広しといえども“少女歌劇”は日本にしかない、その東京松竹歌劇団のうら若き踊り子百数十人が「首切り減給反対」「衛生設備の完備」など二十八項目の待遇改善要求をかかげ、ストライキに突入した。新聞は連日その闘争を報道、しかもこれを「桃色スト」と銘打って華々しく報じたから、いやでも民衆はこの成り行き如何に注目せざるを得なくなる。
 そしてその輝ける闘争委員長が水の江瀧子(ターキー)、ときに十九歳。この踊り子は、それまで男役はカツラをかぶっていたのに、髪をショート・カットにし、シルクハットにタキシードで登場、世間をアッといわせ、“男装の麗人”と騒がれたこともある。いわば時代の尖端をゆく女性、ときたから「非常時日本」どこ吹く風とスト人気はうなぎ登り。
 翌十六日、浅草公園六区で働く全従業員が闘争支援を声明。二十五日、大阪松竹座のレビューガールもこれに呼応してストに入る。彼女らは会社側の圧力を受け、二十七日に高野山に籠城。東京では松竹側の城戸四朗専務がもう一人のスター津坂オリエら数人の切り崩しに成功、湯河原温泉に立て籠もった。このかんにスターら四十六人が検挙されるが、こうなってはファンも「彼女たちを助けろ」と立ち上がって、講義団がいくつも松竹に殺到する。会社側はもう譲歩するほかなくなった。
 かいていて楽しくもあり、ちょっぴり阿保らしくもあるが、結末だけを記しておくと、七月八日、高野山の老師の斡旋もあって大阪のストは手打ち式、さながらこれに呼応したように、東京は十五日に会社側が白旗をあげ全面解決となる。東でも西でも女たちの堂々のねばり勝ちである。そして十九日に浅草の並木クラブで盛大に「松竹レビューガール争議団解団式」がひらかれ、新聞はまたこれを大きく報じた。
・・・・・・・・・・・
昭和8年
もとを正せば「丸の内音頭」というのがあったすである。日比谷公園内のレストラン松本楼の主人が朝風呂のなかで、田舎で盛んな盆踊りが東京でもできないものか、とふと思いついた。それでさっそく西条八十に相談をもちかけた。で、でき上がったのが、
ハァ、踊りおどるなら、丸うなって踊れ、ヨイヨイ・・・
の「丸の内音頭」。
 ところが、これに目をつけたのがぬけ目のないレコード会社ビクターで、もっと大々的な、東京中をまきこむ音頭へと発展的に改作はできないものか、となって、ここにでき上がったのが有名な「東京音頭」なのである。
「ハァ、踊りおどるなら・・・」ではじまって、「ヤーットナー、ソレ、ヨイヨイヨイ」の一大狂騒曲。この年の夏に、それは突如として、大爆発的に流行していく、防空大演習の終わった東京はもちろん、全国津々浦々の盆踊りの櫓の上から、「チョイと東京音頭ヨイヨイ」の甘ったるい小唄勝太郎の美声が聞こえてきたのである。
・・・・・・・・・・・・・・
昭和18年
 一月十三日、内務省情報局は「米英そのほか敵性国家に関係ある楽曲一千曲をえらび、この演奏、紹介、レコード販売を全て禁止する」という通達を発した。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを地でいったような、すさまじいの一語につきるこのお陰で、ジャズやブルースは歌うことや演奏などすべて禁止となる。「ダイアナ」「アラビアの唄」「私の青空(マイ・ブルー・ヘブン)」をはじめ、「コロラドの月」「上海リル」「サンフランシスコ」などが消えていった。ただし、「ラスト・ローズ・オブ・サマー」と「ホーム・スイート・ホーム」は、「庭の千草」および「埴生の宿」として、日本語で歌われるときはとくに許可された。
 ショパンの曲は?彼はポーランド人で、いまそんな国はない。ゆえにOK。ドビュッシーはフランスの作曲家、いまフランスはドイツに降参しているからOK。などというアホーな議論がされたあとの千曲追放であった。
 ついでに、歌謡曲「煌く星座」(男純情の愛の星の色・・・/佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)にまでクレームがついてしまう。
「星は帝国陸軍の象徴である。その星を軽々しく歌うことはまかりならん」
かくて日本の音楽は勇ましくも雄々しい軍国歌謡ばかりに・・・
・・・・・・・