読書シリーズ「経済で読み解く日本史」(@〜D)

WB HOUSEのBlogへようこそ!”健康に拘る”営業の河野です。資料差し上げます!
こうしてあなたと出会えたのも何かのご縁です、ぜひ「WB工法」と、「エアープロット」いう言葉を覚えて帰ってください、いつか必ずあなたのお役に立ちます!長野の棟梁が考えた「換気扇を使わないで室内の湿気・VOC・臭気を排出」する工法と、白金担持触媒で「アレルギー源を無害化する」方法です。

「面白い!」こんなに付箋をたくさん付けながら読むのも久しぶりだ。
歴史上の出来事を「経済面」から解説して、大いに納得できる。

 

『経済で読み解く日本史』@〜D 上念司 飛鳥新社
上念司:(じょうねん つかさ1969年5月4日〜)東京都青梅市出身。中学校教員の勧めにより中央大学附属高等学校を受験し同校に進学。同校の交換留学プログラムに応募し対象生徒に選定されたため、高校を休学し1年間アメリカに滞在した。1年遅れで同校を卒業後、系列校の中央大学法学部法律学科に進学大学時代は中央大学辞達学会(弁論部)に所属した。
『経済で読み解く日本史』@室町・戦国時代 上念司 飛鳥新社

備忘録

【ちなみに、世の中全体にあふれているお金を「マネーストック」と称するのに対して、その根幹をなす日銀がコントロールするお金を「マネタリーベース」と言います。

日本史の授業で、「日明貿易」の主な輸入品の中に「銅銭」というのが含まれていたことに疑問を持った人はいるでしょうか。「なぜ日本の産品を外国の貨幣と交換するのか?」――、その理由はまさに、日本が当時貨幣を鋳造していなかったにもかかわらず、国内的には貨幣経済が発達して貨幣が不足していたという点にあります。
 もちろん奈良時代から平安時代にかけて、日本には国産貨幣が存在しました。歴史教科書にもある通り、和銅元年(708)に作られた「和同開珎」から、958年の「乾元大宝」までに作られた12種類の国産貨幣です。
 これらの貨幣は畿内など一部の地域では流通していましたが、地方などでは貨幣としてよりも権威の象徴として使われることも多く、経済における“貨幣”という定義でいうとかなり微妙なものでした。

 

本当に貨幣と言えるレベルの国産のお金が登場するのは、天正16年(1588)に豊臣秀吉が鋳造を命じた「天正菱大判」からです。流通という観点から言えば、おそらく徳川家康の時代(慶長6年=1601)から鋳造が始まる「慶長小判」を日本初の国産貨幣としてもいいでしょう。

 

これは朝貢する側の国にとっては一見屈辱的な取引ですが、実際のところはその逆でした。実は朝貢する国よりも、朝貢される国に多大な財政負担を強いるのが朝貢貿易だったのです。

《国際金融のトリレンマ》
下記の3つのうち、2つを達成すると残りの1つは達成できないという絶対に逆らえない経済の掟です。
@固定相場制
A金融政策の自由
B資本取引の自由

 

ちなみに、現代の日本は変動相場制ですので「国際金融トリレンマ」からみると
@固定相場制・・×
A金融政策の自由・・〇
B資本取引の自由・・〇

 

1410年頃の五山十刹
五山の上・・南禅寺
五山・・・・天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
十刹・・・・等持寺、臨川寺、真如寺、安国寺、宝幢寺、普門寺、広覚寺、妙光寺、大徳寺、劉翔寺

 

天台宗(比叡山)と臨済宗(五山)の経済戦争

 

稲作は、一粒のモミが苗になって田植えで分結(ぶんけつ)し、稲穂になるとすくなくとも100粒を超えるモミがつく。江戸時代の農書「百姓伝書」によれば、やせた薄田の場合でも一つの稲穂に50粒、肥沃な上田では180から300粒の籾粒を付けると記している。

 

米が持つ爆発的な生産性により、貸すほうも借りるほうも月利8%という高金利などまったく気にする必要がなかったのです。しかし、これはあくまでも気候に問題が無い時の話です。

 

応仁の乱の原因は複数あります。まず、1430年ごろから始まる気候の寒冷化が1460年あたりでピークを迎えていたこと、明朝がデフレで財政難に陥り交易の回数が制限されて銅銭の流入ペースが鈍ったことが外的な要因として挙げられる。

 

小氷期の間は、天候不順による飢饉が頻発したため、地方で食べていけなくなった人々は食と職を求めて都市に流れていきました。彼らの多くが少ない元手で始められる商工業など、様々な社会の底辺の職業に就きます。既得権益者は当然こういう人々を仲間外れにします。日蓮宗は都市共同体の外側で孤立した京都の新住民たちに受け入れられていったのです。それは高度経済成長期において、地方出身者を中心とした都市の新住民にい創価学会が爆発的に広まっていったのに似ています。】

 

『経済で読み解く日本史』A安土桃山時代 上念司 飛鳥新社

信長、秀吉の時代を経済で読み解くと、また違った理解ができる・・。

備忘録
【「悪貨が良貨を駆逐する」(グレシャムの法則)とは、「悪貨ばかりが使われ、良貨が退蔵されて使われなくなる」というものだった。

 

信長が滅ぼした寺社勢力とは・・
1571年9月 比叡山延暦寺焼き討ち(天台宗)
1573年4月 近江百濟寺焼き討ち(天台宗)
1573年9月 長島一向一揆を完全殲滅(浄土真宗本願寺派)
1575年8月 越前の一向一揆を完全殲滅(浄土真宗本願寺派)
1579年5月 安土宗論、この後日蓮宗を弾圧(日蓮宗)
1581年5月 和泉槙尾寺を焼き討ち(真言宗)
1581年8月 高野聖数百名を誅殺(真言宗)
1582年4月 甲斐恵林寺を焼き討ち(臨在宗)

 

品質の悪い銅銭は「鐚銭(びたせん)」と呼ばれます。「びた一文払えません!」の「びた」とは鐚銭を指したものです。

 

信長の新しい「面」のシステムによって、取引のトラフィックは増大していきます。もしここで信長がマクロ経済政策として貨幣量の増加(金融緩和)を行っていたら、江戸時代をまたずして日本経済は高度経済成長を迎えていたことでしょう。

 

日本は日常的な取引に支障をきたすような貨幣不足に直面します。貨幣が希少価値を持つため、人々はそれを溜め込んで使おうとしません。結果として、デフレが発生します。デフレが発生すると、景気が悪くなり人々は生活苦に陥ります。

 

本能寺の変の翌年の1583年に両派が激突した「賤ケ岳の戦い」は秀吉の圧勝となり、勝家、信孝は自害しました。
 しかし、翌年には信雄と秀吉が仲間割れして、対立を激化させました。信雄は秀吉が織田体制を転覆し「豊臣幕府」を作ろうとしていることに勘付いたからです。信雄は徳川家康と共謀し、1584年3月に挙兵しました。いわゆる「小牧・長久手の戦い」のはじまりです。

 

1584年11月、秀吉は圧倒的に有利な条件で信雄との単独講和を成立させました。信雄が事実上の臣下となったことで、「秀吉は織田家を超えて天下人になった」と認識されるようになります。新たな武家の棟梁の誕生です。

 

 ちなみに、日本の海商たちを密貿易ネットワークに引き入れたのは王直という支那人貿易商でした。1543年に種子島に漂着した船が鉄砲を日本に伝えたと歴史の授業では習いますが、この船も王直の所有する貿易船でした。王直は日本人とポルトガル人との交易で巨万の富を得たと言われています。
 しかし、明において密貿易はあくまでも犯罪ですから、王直は指名手配となります。そのため、王直は日本の平戸や五島福江にあった唐人町で逃亡生活を送っていました。
 しかし、軍務総監の胡宗憲の「出頭すれば罪に問わず、今後は貿易取引を公認する」という甘言を真に受けて帰国したところ、騙し討ち的に処刑されてしましました。

 

かって、商業活動のグランドデザインを描くのは、寺社勢力でした。しかし、秀吉が天下統一を果たしてから、それを描く主体は武家政権に変わったのです。そして、そのスタンダードは徳川幕府にも継承されていきました。まさに秀吉がターニングポイントになっていたのです。

1587年7月、2通のキリシタン禁令(いわゆる伴天連追放令)が相次いで発布されました。

 

「貴穀賤金」と呼ばれる素材理論を頭から信じ込んでしまっていたという可能性です。
「貴穀賤金」というのは、江戸時代に成立した価値観で「米などの農団物は、貨幣よりも貴い」という考え方です。日本では荒井白石の時代からインテリ層を中心に根付いた経済思想を言われています。

 

創業者信長の事業を発展させた経営者秀吉は、目標の達成と同時に慢心し、自らを信長を超える創業者だと思い上がってしまったのかもしれません。だからこそ、これまでの必勝パターンに拘った。それは結果として間違った前提から戦略をい立案することに繋がりました。そして、すべての軍事作戦は達成不能の目標に向かってしまったのです。
 私はこの展開に、ある既視感を覚えました。それは、秀吉の死後350年後に行われた「対米開戦」という誤った決断と敗戦です。手持ちの情報と軍事力を使って、やれるだけのことをやる。そして、結果は知らない――。秀吉はそんな昭和の無責任官僚たちと何がちがうのでしょうか。まさに歴史は繰り返していたのだなと感じました。】

 

『経済で読み解く日本史』B江戸時代 上念司 飛鳥新社

それにしても・・こんなに付箋をたくさん付けながら読むのは・・やはり、気付かされることが多いからだ!!

 

忘備録
【ファシズムの定義は、国家の上に政党や宗教があることです。戦前の日本には、国家の上に政党も宗教もありませんでした。天皇ですらその例外ではありません。天皇大権が行使できるのは政府が機能不全に陥った有事に限られていました。平時に於いても超国家的なパワーを発揮する、現在のイランの宗教指導者とは全く別物です。

 

「入試でそう出るから覚えなさい」という理不尽さに疑問を差し挟まない生徒の方が日本では優秀だと評価されます。しかし、真に歴史的な教養を身につけようと思ったら、むしろ逆の態度こそ褒められてしかるべきです。
 素直に無批判にすべてを受け入れるのとは反対に「なぜ?」を連発してその事象が起こった原因を徹底的にかんがえること。それが歴史に学ぼうとする本当の態度であり、こういったことなしに大人になることはとても危険なことだと思います。

 

●世の中は、モノとお金のバランスによって成り立っている。
●お金が不足すればデフレになり、景気が悪くなる。
●景気が悪くなると、普段は見向きもされない危険な思想に人々は救いを求める

今でも「キャッチアップ型経済」と言って、遅れた国は先進国のマネをするだけで著しく経済成長します。そのマネが最初は下手くそでもまったく問題ありません。経済的に遅れていればいるほどもともと分母は小さいということですから、成長率で見たらトンデモなく高い数字になります。むしろ「遅れていること」は大きなポテンシャルがあるということです。

 

江戸時代を理解する3つのキーワード
@財政構造
徳川家は400万石しかないのに、3000万石の日本全体を治めなければならない。
A管理通貨制度
たとえば瓦礫のごときなりとも、これに官符の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。
B百姓は農民にあらず
百姓は決して農民と同義語ではなく、たくさんの非農民を含んでいる。

「経済の掟」である「モノとお金のバランス」をある程度理解していた人は「元禄高度成長」の立役者で勘定奉行だった荻原重秀、徳川吉宗を改心させた享保の改革を成功させた「大岡越前」こと大岡忠相、、今は相当名誉回復された総軍の側用人の田沼意次、化政文化の原動力となった経済成長を成し遂げた老中・水野忠成などごく限られた幕臣たちでした。
 これに対して、原理主義的な経済オンチはその数倍存在します。「元禄高度成長」を潰した儒学者で側用人の荒井白石、寛政の改革で大コケした老中・松平定信、天保の改革の失敗で江戸幕府の死期を早めた老中・水野忠邦など、数え上げるときりがありません。

 

鎌倉時代⇒室町時代⇒戦国時代⇒安土桃山時代⇒江戸時代

 

自由な経済を支える「経済のインフラ」
@物流の自由
A決済手段の確保
B商取引のルール整備

 

徳川三代が浪費をしなかったら、せっかくの物流革命も新田開発も途中で立ち消えになっていたことでしょう。
家光は一代で500万両を使って亡くなりました。しかし、膨大な金銀のストックがあったため、4代将軍・家綱はそれでも600万両を相続することができました。
しかし、もう金銀の埋蔵量は枯渇しています。これ以上は手元にある金銀を取り崩しながら、構造的な財政赤字を埋め合わせるしかありません。「600万両使い切ったら終わり」という過酷なゲームがはじまりました。

 

真の不確実性が顕在化したとき、手持ちのリソースを出し惜しみせずに投入するというのは危機管理の基本です。保科正之はそういう点で、危機管理というものをよく理解していました。天守閣の再建を断念した理由もまさにこの辺りにあります。

 

歴史教科書で大変景気が良かったとされる「元禄時代」は1688年〜1704年です。しかし、家綱から綱吉に家督が相続された1680年の時点で、幕府の財政は相当逼迫しています。すでに金銀の産出量は大幅に減少しており、貨幣の供給も途絶えがちです。
 ここで、景気を回復できたのが「通貨発行益(シニョレッジ)」の発見です。
歴史教科書では「貨幣の改鋳」と呼ばれています。簡単に言うと、金銀の含有量を減らして多くの貨幣を作り、増加した枚数(出目)を幕府の財源に組み入れるという手法です。

 

綱吉は荻原重秀の核心的なアイデアを採用することで、500万両もの通貨発行益(シニョレッジ)を得ることが出来ましたが、元禄景気の絶頂期である1703(元禄3) 年にはい「元禄地震」、1707 (宝永4))には「宝永地震(南海トラフ地震)と「富士山大噴火」が立て続けに発生した。
 さらに1708(宝永5)年には京都で「宝永の大火」が発生し、禁裏や公家屋敷95軒、町数417町、家数1万351軒、寺社119カ所、大名屋敷21軒が焼失しました。

 

災害や火事などが発生すれば、予想できない突然の大規模財政支出が必要となります。現在なら、復興国債を発行して資金調達し、将来世代にわたって負担を平準化しますが、もちろん当時、そんな発想はありませんでした。

 

家康は慶長六年、いわゆる慶長金銀を鋳造したとされる。金貨では慶長大判・慶長小判・慶長一分銀、また銀貨では慶長丁銀、慶長豆板銀である。ここで注目されるのは徳川氏が金貨について甲斐武田氏の甲州金で見られた四進法の貨幣単位(両、分、朱)を採用していることであり、それは日本独自の通貨制度と言える。

白石は「家宣の遺命」だと事実を捏造して、貨幣の金銀の含有量を慶長時代に戻す無茶苦茶な貨幣の逆噴射改鋳を行います。重秀は抵抗むなしく、白石から徹底的にパージされ、勘定奉行を罷免されてしまう。白石の書いた「折りたく芝の記」の中で、重秀の貨幣の改鋳はこき下ろされていますが、こえは政治的なプロパガンダです。

 

白石は四書五経を丸暗記するぐらいの「秀才」でしたが、本質的にはバカだったのかも知れません。いわゆる「知的バカ=IYI(Intelligent Yet Idiot)というやつです。

 

江戸時代のうちでわが国の対外貿易のもっとも盛んだったころと考えられる明暦元年(1655年)の輸出入品を調べてみると、
輸入品 生糸、絹織物、皮革、香料、薬種、砂糖
輸出品 金・禁制品、銀・銀製品、銅・銅製品、樟脳

 

現在の三井グループの基礎となった三井家も、当初は大名貸で巨額の利益を得ていました。越後屋を創業して三井家を日本一の商家に押し上げた三井高利は、1622(元和8)年に伊勢松坂で生まれ、13歳で江戸に出て兄の呉服店で修業を始めました。そして、修業を終えて独立すると、まずは金融業に進出します。主な融資先は紀伊徳川家などを中心とした大名たちです。

 

大名貸の借金が返せなくなると、最後に徴税権そのものを債権者に譲渡する「台所預かり」という状態に突入します。
実は、明治維新の経済的な側面とはまさにこれで、幕末は日本中の大名が「台所預かり」かなる寸前でした。

 

海上交通網を大量消費時代にマッチするように整備改修したのは、河村瑞賢です。瑞賢は1618(元和4)年、伊勢度会郡の東宮村に生まれた。13歳で江戸に出て、39歳のとき(1657/明暦3)年に「明暦の大火」に遭遇し、基礎の材木を買い占め、同時に建設業を起業して巨万の富を得た。
実は、1450〜1540年と1645〜1715年の2回にわたり「太陽黒点」の極小期があり、太陽活動が停滞していました。そのため、14世紀から18世紀にかけては、北半球の気温は今より1.5℃ほど低かったそうです。

 

江戸時代の「三大飢饉」と言えば「享保の大飢饉(1732〜33年)「天明の大飢饉(1782〜88年)」「天保の大飢饉(1833〜37年)」です。その中で最も被害が大きかったのは、100万人近い人口減少(うち20万人は餓死者)を招いた天明の飢餓だと言われています。

 

人びとは経済的に困窮すると極端な思想や考え方に救済を見出します。そんなとき「開国したことが生活悪化の原因だ!」という素朴理論を開けば、多くの人がそれを信じてしまいます。幕府の為替レート設定の失敗は、人々の「攘夷」の感情に火をつけ、開国を推進した幕府は人々の怒りを買ってしまった。

 

基本的に、「明治維新」の政治的なプロセスは、以下の3者に合従連衡を見ていれば分かる。
●一会桑(徳川慶喜、会津藩、桑名藩)
●薩摩藩
●長州藩

 

討幕のターニングポイントになったのは、明らかに「薩長同盟」です。この同盟は亀山社中の坂本龍馬から提案されたものです。幕府の包囲網によって武器の購入が禁止されていた長州藩に代わり薩摩藩に代わり薩摩藩が武器を購入し、兵糧米が不足していた薩摩藩に長州藩が米を提供するという「ディール(取引)」でした。

 

【読書シリーズ】
『経済で読み解く日本史』C明治時代 上念 司 飛鳥新書

 

歴史に「たら、れば」は禁句だが、著者のような経済学者が当時欲しかった!
明治時代の混乱の原因の大きな要因に経済問題、貨幣問題、外債問題が関与していたことが良く理解できる。さすが、経済評論家!
残り1冊、早く読みたい!!

 

備忘録

当時、労働法はまだ整備中であり、労働時間は基本的に12時間、ところによっては朝の5時半から晩の8時半まで15時間操業も当たり前という究極のブラック企業だらけでした。しかも、13歳未満の子供も就業しており、これも大きな社会問題となっていました。
 なぜこんな酷い労働条件でも人々が就労していたのか?その理由はやはりデフレです。デフレが発生すると物価が下落するだけでなく、失業率が上昇します。物価上昇率と失業率には逆相関の関係があり、物価が上がれば失業率は下がり、反対に物価が下がると失業率が上昇してしまうのです。しかも、デフレによって物価が下がる場合その下げ幅がたとえ0.1%程度であったとしても、失業率が大きく跳ね上がります。この相関関係は経済学においてはフィリップス曲線として知られている。

しかし、マルクスの主張はなんと完全に間違っていました。不況は資本主義の限界によって起こるものではなく、政策当局の判断ミスによって起こっていたからです。イギリスの不況の原因はデフレであり、デフレの原因は貨幣量の不足にありました。そして、その貨幣量の不足をもたらしていたのは金本位制です。問題はあくまでも金本位制にあるのであって、資本主義そのものに問題があるわけではありません。

 

景気が良くて仕事が順調なら、誰にも見向きもされなかったであろう社会主義思想は、デフレのおかげでイギリスだけではなく全ヨーロッパの労働者を惹きつけました。リーマンショックの直後に、日本で政権交代が起こり、民主党政権が成立したように、経済的に困窮した人々は極端な考えにすがりついてしまうのです。

 

マルクスが革命を起こさないと終わらないと断言していた「資本主義の限界=デフレ」は1886年に南アフリカ、1896年にカナダで相次いで新たな金山が発見されるとあっけなく終了してしまいました。しかも、この時期は金山の発見だけではなく、金(ゴールド)の抽出率を高める青火法が開発されました。青火法によって、金(ゴールド)の含有率が低くて捨てるしかなかった金鉱石からも金(ゴールド)を抽出することが出来るようになったのです。

 

金本位制とは慢性的な通貨供給不足を招きやすく、デフレ期待を醸成しやすいという欠陥がありました。この制度のせいで、世界経済は数年おきに大恐慌に見舞われ、そのたびに国内には過激思想が台頭します。最悪の場合、その過激思想を信じる人々が政権を取り、戦争を始める場合もあります。二度の世界大戦の理由はまさにそこにありました。つまり、金本位制がデフレを誘発し、デフレによって景気が悪化、人々の生活基盤が破壊され、経済的に困窮した人々が過激思想に走る。これこそが、人類を滅亡に導きかねない世界大戦の真の原因だったのです。

 

1900年ごろに世に出た「シオン議定書」はそれまでの陰謀論の集大成でした。もちろん、これは偽書です。メイド・イン・ロシアのこの偽書は当時ユダヤ人を弾圧していた警官によって書かれた荒唐無稽な与太話でした。「シオン議定書」には、ユダヤ人の長老が集まって世界支配に向けた作戦計画を練ったと書いてあるそうですが、そもそもユダヤ人の宗教指導者はラビといって別に長老とは限りません。肝心なディテールが雑で陰謀論としても非常に完成度の低いものでした。

「明治維新」と呼ばれるイベントは昭和になってから一般化した名称です。当時の一般的な故障は「御一新」です。そもそも、幕府という名称すら水戸学などの一部の人が唱えていただけで、ほとんどの人は「公儀」と呼んでいました。

 

名目成長率>名目公債利子率 =>債務は維持可能
名目成長率<名目公債利子率 =>債務は維持不可能

 

江藤新平は、この時代の政治家に珍しく論理的・組織的頭脳に恵まれ、企画力に富み、法制的知識も豊かであった。中央政府に新しく登場した江藤は、様々な新制度の立案や造出にい傑出した才能を示し、三条や岩倉から大きな信頼を寄せられるに到った。
 しかし、急進的改革には反発はつきものです。特に、秩禄を減額され生活に困窮した士族の不満は爆発しました。江藤新平自身も、佐賀藩の元下級武士に虎ノ門で襲撃され負傷しています。
 また、江藤は優秀過ぎただけに、岩倉使節団が帰国すると、大久保利通からも警戒されるようになります。そして、事件は起こりました。

 

当時、日本の安全保障政策においてロシアの南下をいかにして食い止めるかは喫緊の課題でした。ところが、支那と朝鮮が近代化の努力を怠り、欧米列強に食い物にされ弱体化しています。こんなことではロシアに簡単に侵略されてしまう。彼らにも早く維新を起こしてもらい、欧米列強に対抗するために近代化を図ってもらいたい。これこそが日本が支那と朝鮮に託した希望でした。

韓国近代史のなかで、李氏朝鮮末期に関しては三人の重要人物がいます。一人が高宗(在位1863〜1907)です。日本の幕末から明治に当たる時期に朝鮮国王でした。二人目が、その父の大院君。三人目が、高宗の王妃である閔妃です。先に行っておくと、「大院君と閔妃が派閥抗争をして双方が共倒れになり、残された高宗は頼るものがなく、国ごと日本の軍門に下る」が、大まかな流れです。

 

征韓論争の参議において、江藤が大久保を事実上論破してしまったことを大久保が根に持っていたとのことです。大久保は三条に言われて渋々参議に参加し、反対意見を述べただけなのに、江藤はそれを完膚なきまでに粉砕してしまったのです。このとき、大久保のプライドはズタズタにされてしましました。
 これまでの決まりを無視して、岩倉が閣議決定に反する上奏を行うことはトンデモないことでした。そんな無法がまかり通るのを「征韓派」の参議たちが黙って見過ごすはずはありません。西郷隆盛、板垣退助、後藤象二朗、副島種臣、江藤新平らは抗議のために参議を辞して下野しました。これが明治六年政変の顛末です。

 

 明治六年政変を経て、事実上の大久保政権が誕生しました。1873年11月、参議の大久保利通は新たに設立された内務省のトップである内務卿に就任し、殖産興業に本格的に着手しました。
 この時大活躍したのが、渋沢栄一です。元々は徳川慶喜に仕えていた渋沢は、明治維新が起こったことで心機一転、新政府の民部省租税正に就任。官営富岡製糸場設置主任、紙幣頭、大蔵少輔事務取扱などを歴任しました。その後、大蔵省を退職して第一銀行(現:みずほ銀行)を設立、日本郵船、東京瓦斯、帝国ホテル、札幌麦酒、東京石川島造船所、東京電力などの設立に参画し、日本の資本主義の礎を築きました。

1873(明治6)年 明治六年政変
1874(明治7)年 佐賀の乱(2月)、台湾出兵(5月〜12月)
1875(明治8)年 江華島事件(9月)
1876(明治9)年 神風連の乱(10月)、秋月の乱(10月〜11月)
        萩の乱(10月〜12月)
1877(明治10)年 西南戦争(2月〜9月)

 

神風連の乱・・200人、秋月の乱・・230人、萩の乱・・300人ほど・・。

 

しかし、西南戦争で日本全国の不平士族の恨みを一身に受けた大久保は、翌1878(明治11)年5月14日に紀尾井坂の変で暗殺されてしまう。犯人は加賀藩の元足軽の島田一郎をリーダーとする不平士族6名です。

 

大隈重信は翌年の明治十四年政変で下野するまで、財務担当参議として引き続き財政政策に大きな影響を与えています。そして、大隈が失脚した後、参議兼大蔵卿に就任したのが「松方デフレ」でお馴染みの松方正義です。

 

バルチック艦隊がウラジオストックを目指す場合、上海から対馬と朝鮮半島の間を通れば1000海里ですが、日本列島を太平洋側に大回りしたら3000海里になってしまいます。ところが、バルチック艦隊の航続距離は満タンにしても2000海里。もうこの時点で、太平洋から回り込むなど不可能だったのです。

日本海海戦の様子
5月27日 04:45 バルチック艦隊を発見した信濃丸が第一報を打電
     13:39 出撃した連合艦隊主力がバルチック艦隊を発見
     13:55 「三笠」艦上にZ旗が掲げられる
 14:05 東郷長官が敵前で左旋回を指示
     14:08 バルチック艦隊が連合艦隊に対し、一斉に砲撃を開始
     14:10 連合艦隊が砲撃を開始
     15:00頃 日本軍の砲撃でロジェストヴェンスキー長官が負傷
     19:00過ぎ 連合艦隊が砲撃を中止。北方に移動する
     夜間  日本軍の駆逐艦と水雷艇がバルチック艦隊の残存艦を攻撃
5月28日 05:00連合艦隊主力が鬱陵島沖に集結
      09:30 連合艦隊主力が敗走するバルチック艦隊を発見
      10:30頃 連合艦隊が砲撃を開始
      同日中 バルチック艦隊が日本軍に降伏  
対米開戦の直接的な引き金を引いたのは、三度にわたる近衛内閣であることは間違いありません。しかし、そもそも対米関係の悪化、その原因となるアメリカの日本に対する警戒感の高まりは、日露戦争の頃にその萌芽がありました。この萌芽を摘む絶好の機会だった桂―-ハリマン協定を小村は潰しました。大東亜戦争の開戦責任は究極的には小村にあったのではないでしょうか?
 】

 

 

【読書シリーズ】
『経済で読み解く日本史』D大正・昭和時代
上念 司 飛鳥新書

 

やっと1〜5冊を読み終えた。まさに目から鱗!歴史上の出来事が、経済面から解説してもらうと大いに納得できる。
経済がこれほど大きな影響を与えていたとは・・、改めて感服。

 

備忘録

 


本シリーズの一貫したテーマは「人々は経済的に困窮すると、ヤケを起こして、普段は見向きもされない過激思想に救済を求める」というもの。

イギリスから始まった資本主義の波は、確かに世界中に伝搬しましたが、同時に伝搬した金本位制の欠陥ゆえにたびたび恐慌が発生した。カーネル・マルクスはこの点を突いて、「資本主義には構造的欠陥がある」などと主張し、プロレタリア独裁による「共産主義」を実現して世の中を変えなければならないと説きました。もちろん、金本位制の欠陥は共産主義で解決できるはずはありません。マルクスに騙されてしまった人には気の毒ですが、金本位制を止めない限り、頻発する恐慌を止めることは出来ないのです。

 

第一次世界大戦後に各国政府が本来やるべきは金本位制の停止であり、現在のような変動相場制による「管理通貨制度」への移行でした。しかし、当時の政治家たちは「ブロック経済」や「戦争」といった誤った手段でこれを解決しようとしたわけです。これこそが二度目の世界大戦を招いた真の原因です。

 

経済政策の変更は株式や為替など資産市場には即座に及びますが、実体経済に波及するには時間がかかります。これは絶対に逆らえない経済の掟です。1900年代のアメリカの株価と工場労働者の時給の間ですら、この関係をみてとることが出来ます。

 

ハイパーインフレになるには、少なくとも次の3つの条件を満たす必要がある。
@生産設備の徹底的な破壊
A労働力の中長期的な不足
B高額紙幣の大量発行

1923(大正12)年9月1日には「関東大震災」が発生し東京を中心に大きな被害が出ました。
死者・行方不明は10万人を超え、建物被害は焼失家屋44万7000戸、全半壊25万4000戸を数え、被害額は当時のGNPの4割を超える55億円から65億円にのぼりました。当時の国家予算は15億円、GNPは150億円だったので、被害額は国家予算の5倍に相当する莫大なものでした。

 

縮小されたとはいえ、一応実施された復興事業のおかげで、現在の東京は大きな恩恵を被っています。今でも東京に残っている大規模な道路「日比谷通り」「「昭和通り」「晴海通り」や墨田、錦糸、浜町の各公園なども、この時の後藤新平の復興計画で建設されたものです。隅田川にかかる「永代橋」「清州橋」「蔵前橋」「駒形橋」「言問橋」「相生橋」は復興局、「両国橋」「厩橋」「吾妻橋」は東京市によって架け替えられました。

 

山本権兵衛内閣は、震災発生から退陣までの短い時間に矢継ぎ早に緊急対策を打ち出しました。その3本柱は次のとおりです。
@モラトリアム
A震災手形損失補償
B生活および復興物資に対する輸入税減免

 

結局、経済的な困窮による人々の心の乱れと、その乱れに乗じて販売部数を伸ばそうとする商業マスコミが、相互に煽り合って国全体がアブナイ考えに染まっていきました。

世界を不安定化させたもっとも大きな問題は、やはり経済にありました。「戦後処理(賠償金問題)」と「金解禁(金本位制復帰)」です。

 

世界中の国々で、金本位制への復帰を推進する当局と、それに異を唱える元祖リフレ波の大論争が繰り広げられました。日本ではこれを「金解禁論争」と呼んでいます。
 イギリスでは、あのジョン・メイナード・ケインズが大蔵省んお見解に戦いを挑みました。日本では、石橋湛山、高橋亀吉といった在野のエコノミストたちが、ケインズと同じ立場で当時の御用エコノミストに論戦を挑んでいます。

 

各国が戦費調達のために発行した国債は将来的な金本位制復帰を前提としたものでした。これを突如やめれば債権市場が大混乱に陥る可能性がありました。例えば戦後アメリカのニクソン大統領はドルの金兌換を停止しましたが、この時世界経済は大混乱に陥っています(ニクソン・ショック)。

 

しかも、「物価」と「失業率」は常に逆相関の関係(フィリップス曲線)があるので、物価が上がっているということは、失業も相当程度減っているということになります。社会全体でみたとき、インフレのほうがデフレよりもメリットがはるかに大きいことは明らかです。

ちなみに、この体制はドイツという国家よりもナチスという政党が上にあるのでファシズム体制と言います。現在でも北朝鮮や中華人民共和国は国家の上に党を置いているのでファシズム体制です。挑戦労働党や中国共産党はコミュニスト(共産主義者)であると同時にファシストであると言えます。

 

日本は満州の利権を一国だけで独占しようとしました。日露戦争で一番血を流したのは日本でしたから、国民世論がそれを欲したことも確かです。しかし一番の問題はそれを煽りまくった新聞です。もし「新聞が社会の公器」であるなら日本の本当の国益を堂々と主張し、増税と緊張と不景気でヤケを起こして暴れまわって人々にもっと冷静になるよう求めたことでしょう。

 

「スパイが敷いたレールの上を破滅に向かって全力疾走するバカ」。厳しいようですが、これが当時の日本を表す最も的確な言葉です。

 

もともと海軍が持っていた作戦プランは、フィリッピンに駐留するアメリカ陸軍を殲滅し、大量に獲得した捕虜を奪還するためにやってくるアメリカ海軍と最悪の場合でも洋上で差し違えるというものでした。アメリカ艦船が大量に沈めば、・・・・アメリカ国内で一気に厭戦ムードが高まる可能性がありました。

神武景気が始まった後の1955年から1973年の石油危機(オイル・ショック)まで、日本の実質経済成長律は欧米の2〜4倍もの高水準を維持しました。
 その理由はいわゆる「キャッチアップ経済成長」に有ります。一言でいえば、欧米諸国をお手本にひたすらそれをパクる。これです。先進国の真似をすることで、本当なら必要な試行錯誤のステップをいくつも飛ばして、いきなり正解にたどり着くことが出来るのです。また、日本の場合1ドル360円の超割安な為替レートにも大いに助けられました。

 

ブレトンウッズ体制とは、アメリカが金兌換紙幣であるドルを発行し、各国はドルとの固定相場を設定することで経済を安定させる枠組みです。この制度はアメリカの圧倒的な金保有を前提としています。

 

「歴史に経済というモノサシを当てれば今まで見えなかったものが見えてくる」と私は本シリーズで繰り返し述べました。読者の皆様におかれまして、今度はそのモノサシをぜひ未来にも当ててみてください。そうすることで、二度とこの国が誤った政策を選択しないようにお役立ていただければと思います。

 

やっと1〜5冊を読了しました!!