読書シリーズ「21Lessons」

WB HOUSEのBlogへようこそ!”健康に拘る”営業の河野です。資料差し上げます!
こうしてあなたと出会えたのも何かのご縁です、ぜひ「WB工法」と、「エアープロット」いう言葉を覚えて帰ってください、いつか必ずあなたのお役に立ちます!長野の棟梁が考えた「換気扇を使わないで室内の湿気・VOC・臭気を排出」する工法と、白金担持触媒で「アレルギー源を無害化する」方法です。

 

 

「21世紀の人類のための21の思考」

ユヴァル・ノア・ハラリ

1976年、イスラエルのキリヤット・アタで生まれた。その後ハイファにてレバノンと東ヨーロッパをルーツに持つユダヤ人家庭で育った。
2002年に、現在彼の夫であるイツィク・ヤハフ(Itzik Yahav)に出会い、彼はヤハフのことを「私の『すべてのモノのインターネット』(my internet of all things)と語っている」。ヤハフは個人的なマネージャーでもある。カナダのトロントで結婚し 、その後イスラエルにほど近い地のモシャブ(農業共同体の一種)で生活している。

 

 

備忘録

人間には二種類の能力がある。身体的な能力と認知的な能力だ。過去には機械は主にあくまで身体的な能力の面で人間と競い合い、人間は認知的な能力の面では圧倒的な優位を維持していた。
ところが今や人工知能(AI)が、人間の情動の理解を含め、こうした技能のしだいに多くで人間を凌ぎ始めている。

 

ホモ・サピエンスは満足するようには断じてできていない。人間の幸せは客観的な境遇よりも期待にかかっている。ところが、期待は境遇に適応しがちで、境遇には他の人々も境遇も含まれる。物事が良くなるにつれて期待も膨らみ、その結果、境遇が劇的に改善しても、私たちは前と同じぐらい不満足のままでありうる。

普遍的な経済的セーフティネットを強力なコミュニティや有意義な営みと首尾よく結び付けられれば、アルゴリズムに仕事を奪われることは、じつは恩恵となるかもしれない。

 

ブレグジットの投票の後、著名な生物学者のリチャード・ドーキンスは、自分も含め、イギリスの国民に投票で意見を問うべきではなかったと、不満の意を表した。なぜなら一般大衆は、判断に必要とされる経済学と政治学の予備知識を欠いていたからだ。「アインシュタインが代数学的な処理をきちんとこなしていたかどうかを全国的な投票を行って決めたり、パイロットがどの滑走路に着陸するかを乗客に投票させたりするようなものだ。」

 

むしろ感情は、あらゆる哺乳動物と鳥類が生存と繁殖の確率を素早く計算するのに使う、生化学的なメカニズムだ。感情は直感や霊感や自由には基づいていいない。計算に基づいているのだ。

 

私たちは、感情がじつは計算であることにたいてい気づきそこなう。なぜなら、計算の迅速な過程は、私たちが全く自覚できない次元で起こるからだ。私たちは脳内で何百ものニューロンが生存と繁殖の確率を計算しているのを感じないので、ヘビに対する恐れや、繁殖相手の選択や、EUについての自分の意見は、何か謎めいた「自由意思」の結果だと、誤って信じている。

 

自由意思という私の幻想は崩れ去るだろう。
それを簡潔に表すなら、次の公式が使える。
 b×c×d=ahh!
すなわち、生物学的知識(biological knowledge)と演算能力(computing power)とデーター(data)の積は、人間をハッキングする能力(ability to hack humans)に等しい。

 

私たちは弁護士や政治家、哲学者、さらには詩人にさえも、この難問、すなわちデーターの所有をどう規制するかという問題に注意をむけるよう求めた方がいい。これこそおそらく、私たちの時代の最も重要な政治的疑問だろう。

 

人類は何百万年にもわたって、数百人未満の小さな生活集団での暮らしに適応してきた。今日でさえ、ほとんどの人は150人以上を本当によく知ることは出来ずにいる。フェイスブックの友達がどれほど多くいようと関係ない。このような親密な集団がなければ、人間は寂しさや疎外感を覚える。

 

国家という家族の中の何百万もの兄弟や、共産党の何百万もの同志が束になっても、たった一人の真の兄弟や友人が与えてくれる温かい親密さを提供できない。その結果、人々はますます接続が増える地球上で、ますます孤独な暮らしを送ることになる。私たちの時代の社会的混乱や政治的混乱の多くは、人間関係のこの低迷状態に元をたどれる。

 

フェイスブックのコミュニティのビジョンは、AIを使ってグローバルな規模で中央計画型のソーシャル・エンジニアリングを行う、最初のあからさまな試みなのかもしれない。したがってそれは、きわめて重要なテスト・ケースになっている。もしそれが成功すれば、同じような試みが数多くなされ、アルゴリズムは人間の社会的ネットワークの新たな主人として認められるだろう。逆に、それが失敗に終われば、新しいテクノロジーの限界が明らかになる。すなわち、アルゴリズムは自動車を運転したり病気を治したりするのは得意かもしれないが、社会問題の解決に関しては、私たちは相変わらず政治家や聖職者に頼るべきであるということだ。

 

人びとは、「経験をシェアする」という名目で、自分に起こっていることを、他人にどう見えるかという観点から理解することを促される。何か胸の躍るようなことが起これば、フェイスブックのユーザーは本能的にスマートフォンを取り出し、写真を撮り、投稿し、「いいね!」という反応が返ってくるのを待つ。その間、彼らは自分自身がどう感じているのかには、ほとんど注意を払わない。それどころか、彼らがどう感じるかは、オンラインの反応によって次第に決まるようになってきている。

 

人間の集団は何であれ継続しているものよりも、経験する変化によって特徴づけられるが、それでも自らのために、大昔にさかのぼるアイデンティティを創出してのける。それは物語を語る技能のおかげだ。彼らはどのような変革を経験しても、古いものと新しいもの織り交
ぜて一本の糸を紡ぎ出す。

 

私たちは、自分たちの価値観は太古の祖先から伝わる貴重な遺産だと言い張る。とはいえ、私たちがそう言えるのは、祖先がとうの昔に死んでいて、何一つ発言できないからにすぎない。

 

イスラム教の真の本質について激しい議論を戦わせても、無意味としか言いようがない。イスラム教には不変のDNAなどない。イスラム教とは、イスラム教徒がどのように考えるか次第なのだ。

 

タリバンでさえ、アフガニスタンという主権国家の正当な政府として国際的に認めてもらおうとした。ブローバルな政治の原理を拒絶する集団が、それなりの広さの領土を継続的に支配できたことはこれまで一度もない。

 

激動の二十世紀の間に、戦争のせいで中止になったオリンピックは三回(1916年、1940年、1944年)しかない。1980年にはアメリカと仲間の西側諸国がモスクワオリンピックをボイコットし、1984年にはソ連ブロックがロスアンデルスオリンピックをボイコットした。その他何度か、オリンピックは政治的激動の中心となっている。(特筆するべきなのが、ナチスドイツがベルリンでオリンピックを開催した1936年と、ミュンヘンオリンピックでパレスチナ人テロリストがイスラエルの選手たちを虐殺した1972年だ)それでも、全体とすれば、政治的な論争がオリンピックという事業を頓挫させることはこれまでなかった。

 

こんな話がある。ある年老いた賢者が、人生の意味について何を学んだかと訊かれた。「そだな、自分がこの世にあるのは、他人を助けるためであることを学んだ。」と彼は答えた。「だが、いまだにわからないことがある。それは、なぜ他人がこの世にいるか、だ。」

 

ヴィパッサナー瞑想
講習の指導者S・N・ゴエンカは受講生に足を組んで目を閉じて座らせ、鼻から出たり入ったりする息に注意をすべて向けるように指示した。「何もしてはいけません」と彼は言い続けた。「息をコントロールしようとしたり、特別な息の仕方をしようとしたりしないでください。それが何であれ、この瞬間の現実をひたすら観察するのです。息が入ってくるときは、今、息が入ってきていると自覚するだけでいいのです。息が出ていくときには、今、息が出ていっているとだけ自覚します。そして、注意が散漫になり、心が記憶や空想の中を漂い始めたら、今、自分の心が息から離れてしまったことを、ただ自覚してください」これほど重要なことを教わったのは初めてだった。

 

自分の呼吸を観察していて最初に学んだのは、これまであれほど多くの本を読み、大学であれほど多くの講座に出席したにもかかわらず、自分の心については無知に等しく、心を制御するのがほぼ不可能だということだった。どれほど努力しても、息が自分の鼻を出入りする実状を10秒と観察しないうちに、心がどこかへさまよい出してしまう。

 

人間の心の謎と取り組むときには、瞑想は万能薬ではなく、科学的な道具箱に追加する貴重な道具と見なすべきだ。