読書シリーズ『一気読み!日本近現代史』

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こうしてあなたと出会えたのも何かのご縁です、ぜひ「WB工法」と、「エアープロット」いう言葉を覚えて帰ってください、いつか必ずあなたのお役に立ちます!長野の棟梁が考えた「換気扇を使わないで室内の湿気・VOC・臭気を排出」する工法と、白金担持触媒で「アレルギー源を無害化する」方法です。

『一気読み!日本近現代史』斎藤 孝著、東京堂出版
斎藤 孝:

静岡県静岡市生まれ。東京大学法学部卒、東京大学大学院教育学研究科学校教育学専攻博士課程満期退学。日本学術振興会特別研究員、世田谷市民大学講師、慶應義塾大学非常勤講師、明治大学文学部専任講師・助教授を経て現職。

 

やはり、東大出は読書量が違う!整理力が違う!
本文中で引用されている本を見ると、古典から洋書まで・・その幅の広さにはビックリ。
さらに、至適の引用で説得力が半端じゃない。
日本近現代史がスッキリ整理できる。
本書を読むと、著者の考えが”真理”に思えてくる・・。

備忘録

【「王政」というものを持たなかった日本は、「革命」とも「共和制」とも無縁でした。その代わり、「聖なる力」を持つとされた天皇が統治する形をとりつつ、しかし実質的には政治には関わらないという、独特のシステムを築き上げた。

明治時代に入って「華族」または「士族」という身分を与えられた武士たちには、金銭的な保障がありました。藩に代わって政府から「家禄」という名の俸禄が支給されていた。
ところが1876年(明治9年)、この制度も打ち切られる。これを秩禄処分という。政府にとって家禄の支出は膨大で、実に国家財政の約30%に達していたlその負担を軽減するため、代わりに家禄の5〜14年分の金禄公債を一括で支給した。条件は5年据え置き(現金化不可)の上、30年償還。その間に利息を支払うことで、家禄を廃止した。
アメリカやヨーロッパへ出向いた福沢諭吉は「西洋事情」などの著書で見聞きしたことを詳しく紹介している。その観察眼には「さすが」と言わざるを得ない。
政治のシステムや法体系、銀行の決済システムや株式会社の仕組みといったものまで調べて紹介している。これこそ「知力」というものでしょう。

 

学校制度の確立が日本人の「規律レベル」を押し上げた

 

1872年(明治5年)から1876年(明治9年)にかけて、福沢諭吉の「学問のすすゝめ」が刊行され、大ベストセラーになった。
 同書の冒頭の一節「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」は有名だが、この「人類は皆、平等だ!」という天賦人権説がこの本の主旨ではない。それどころか「一般的にはそう言われているが」という“前振り”にすぎず、「実際には人によって大きな差がある」と説いている。

 

乙未事変(いつびじへん)・・日清戦争終了直後、日本の朝鮮公使が朝鮮国王の王妃・閔妃を暗殺するという事件も起きている。閔妃がロシアの力を借りて日本の勢力を排除しようとしたことに対する措置で、軍人と民間人を王宮に侵入させて閔妃を惨殺した上、その場で焼き払った。

 

アンダーソンは「国民」という意識、ナショナリズムの強大な力についてこう警鐘をならしている。
《国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。》
「イメージ」であり「想像」の面を持つ国民意識が、どれほど強大な力で歴史を動かし、運命を時に悲劇へと導いたか。それを理解するのも、近現代史の核心だ。

 

英国の歴史家ラッセル・グレンフェル大佐は、次のように結論づけている。
《ある程度の事情が分かっている者は、日本が悪辣な奇襲攻撃をアメリカに仕掛けたなどとは考えない。真珠湾攻撃は、予期されていただけでなく期待されていた。ルーズベルト大統領がアメリカを戦争に導きたかったことに疑いの余地はない。ただ、政治的な理由で、最初の一撃は相手側から発せられる必要があった。だからこそ日本に対する締め付けを強めていったのである。その締め付けは、自尊心のある国であれば、もはや武器を取るしかないと思わせるところまでいっていた。アメリカ大統領によって日本は、アメリカを攻撃させられることになっていた。オリバー・リトルトンは英国の戦時生産大臣であったが、1944年に「日本は真珠湾を攻撃するよう徴発されたのである。アメリカが戦争に無理やり引きずり込まれた、などと主張することは茶番以外の何物でもない」と述べている。》

 

そもそも大日本帝国憲法に代わる新憲法が必要になったのは、日本がポツダム宣言を受け入れたからです。そこには、降伏の条件として「民主主義の推進」「基本的人権の尊重」「武装解除」などが挙げられています。
 これらを満たすうえで、「天皇主権」「人権は法律の範囲内で」「陸海軍を天皇が統帥」などと定められが帝国憲法では都合が悪いのではないか、という議論が生まれた。
 そこで敗戦からわずか二カ月後の1945年(昭和20年)10月、発足したばかりの幣原喜重郎内閣は、国務大臣の松本丞治を委員長として、憲法改正について協議する「憲法問題調査委員会」を立ち上げた。しかし同委員会での結論は「大きな改革は不要」。帝国憲法の枠組みを残したままでも、民主的な国家運営は可能と考えた。
 ところが、その保守的な改正案を察知して驚いたマッカーサーは、翌1946年(昭和21年)二月にGHQ自らが憲法改正案を起算するよう指示。その後憲法問題調査委員会による案の提出があったものの、同月13日にはGHQ改正案が日本政府に提示されます。つまり、委員会の案は、完全に無視された。
 その後、GHQと政府とで交渉を重ね、翌三月にはGHQ案をもとにした改正憲法の原案(憲法改正案要綱)を公表。それから国会において帝国憲法に則った憲法改正の手続きが行われ、また一方では国語学者らによって条文の「口語化」の作業が行われ、同年11月3日に「日本国憲法」として交付された。施行日は翌1947年(昭和22年)5月3日です。

 

帝国憲法と新憲法の違いは多数あるが、大きくは以下の三点。
一つ目は、天皇の位置づけ。主権は天皇から国民に移り、天皇は国家の「統治権の総攬者」から「国民統合の象徴」となり、国政に対する権能を一切持たないこととされた。
二つ目は、基本的人権の尊重。自由権や平等件、社会権はいかなる国家権力によっても「侵すことのできない永久の権利」とされた。
三つ目が、戦争の放棄。交戦権の否認と戦力の不保持を唱えています。

 

吉田茂「日本を決定した百年」に以下の記述がある。
《そうした峻厳な占領政策は日本に対して一種の反米思想を生ぜしめたことも事実である。しかしながら占領政策全体を通じて考えれば米国なればこそこの程度で日本の占領もすんだのだというべきである。米国政府は一方において峻厳な政策をとり、他方におうてはよく日本国民を飢餓がから救い、日本経済の再建を援助してくれた。その結果は戦後十年にして敗戦より今日の復興を見るに至ったのである。過去の何れの歴史よりしても、戦勝国がその敵国を壊滅せしめなかったのみならず、国民を飢餓より救い進んでその復興再建をかくまで助力援助さし国が果たしてあっただろうか。米国なればこそである。》

 

ちなみに、池田(勇人)といえばもうひとつ、吉田内閣の蔵相時代にも歴史に残る“コピー”を生み出している。「貧乏人は麦を食え」だ。大臣に発言としては、聞き捨てならないだろう。
 ただし、当人が直接こう言った」わけではない。国会で米価について問われ、「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う。所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に沿ったほうへ持っていきたい」と答弁しただけだ。戦後の統制経済から早く脱し、自由な価格設定と競争ができる経済にしたい、という意味だったのだろう。】