読書シリーズK「海ゆかば山ゆかば」

「軍歌」をアナクロニズムではなく、芸術作品としての捉え方。
メロディはもちろん、その歌詞の素晴らしさに改めて感動!!...
私の「忘備録」メモの一部を以下に・・。

『海ゆけば 山ゆけば』林秀彦 著 PHP

 

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きちんと五線紙に表現された軍歌第一号は、やはり日仏合作の「抜刀隊の歌」ではなかろうか。軍楽隊の教官として招かれていたフランス人のルルーという人が作曲したれっきとした西洋の旋律に、外山正二が詩をつけたのは明治18年のことだった。

 

我は官軍我(わが)敵は  天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は  古今無雙(双)の英雄で
之に從ふ兵(つわもの)は  共に慓悍(ひょうかん)決死の士
鬼神(きしん)に恥(はじ)ぬ勇あるも  天の許さぬ叛逆を
起しゝ者は昔より  榮えし例(ためし)あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄(それまで)は  進めや進め諸共に
玉ちる劔(つるぎ)拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし

 

皇國(みくに)の風(ふう)と武士(もののふ)の  其身(そのみ)を護る靈(たましい)の
維新このかた廢(すた)れたる  日本刀(やまとがたな)の今更に
又(また)世に出づる身の譽(ほまれ)  敵も身方も諸共に
刄(やいば)の下に死ぬべきぞ  大和魂ある者の
死ぬべき時は今なるぞ  人に後(おく)れて恥かくな
敵の亡ぶる夫迄は  進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて  死ぬる覺悟で進むべし
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「空の勇士」作詩 大槻一郎  作曲  藤野今春
この歌は一編の映画である。質の高い、芸術性のあり映画である。
まず一番の歌詞にそのプロローグ的なシーンが紹介される。

 

 

恩賜の煙草を いただきて 
あすは死ぬぞと 決めた夜は 
広野の風も 腥(なまぐさ)く 
ぐっと睨んだ 敵空に 
星が瞬(またた)く 二つ三つ

 

 恩賜の煙草とは、タテマエとして天皇から頂戴する煙草で、吸い口の近くに金の菊のご紋章が入っている。・・・・・・・・・・それは天皇と国民の象徴的な肌の触れ合いに近かったと思われる。理屈ではない。・・・・・・・・・・・・・

 

すわこそ征けの 命一下 
さっと羽ばたく 荒鷲へ 
何を小癪な 群雀(むらすずめ) 
腕前見よと 体当たり 
敵が火を噴く 墜ちてゆく

 

三番がことさらいい。その映像美が抜群なのである。

 

機首を回した 雲の上 
今の獲物を 見てくれと 
地上部隊に 手を振れば 
どっと揚った 勝鬨(かちどき)の 
中の担架が 眼に痛い 

 

なんという日本人の感性だろう。俯瞰図である。戦闘機は任務を果たして雲の上に身を翻し、その角度から地上を見下ろすのである。下には仲間が見上げている。手を振り、喜びと感動に飛び上がっている兵隊もいるかもしれない。
だが、その群像の間に、傷つき、もしかすると胸には血の滲み出ている兵を乗せた担架が見える。歌の中の主人公は意気が揚がっている。誇りと喜びで胸が一杯である。ところがその昂揚の気持ちを刺すがごとく、地上の担架の色が眼を射るのである。担架は普通は白いのだ。そのイメージが強烈である。ぽつん、と見える。ぽつんと白い担架に横たわっている、生死も定かでない孤立した、動かない(周りは勝閧に沸いている)兵が見えるからこそ、このシーンは一編の名画のように締まるのだ。
もう一度重ねて言うが、なんという日本人の感性だろう。
日本人だけが持ちえた感性である。これほどの芸術性のあるシーンを挿入したミリタリーソングなど、世界中にない。ここがこの歌のクライマックスであり、最も内面的な感動を触発させる場面なのだ。
芸術とは、こういう部分の有無で生まれる。ただの戦意昂揚の意図を超える。
四番、五番はエピローグである。

 

 

しめたぞ敵の 戦車群 
待てと矢を射る 急降下 
煙る火達磨 あとにして 
悠々還(かえ)る 飛行基地 
涙莞爾(かんじ)と部隊長

 

 

世界戦史に 燦然(さんぜん)と 
輝く陸の 荒鷲へ 
今日もうち振る 日章旗 
無敵の翼 とこしえに 
守るアジアに 栄あれ

 

莞爾(かんじ)という語感も諸君は知るまい。にっこり微笑む様だが、この部隊長の目には涙が光っているのである。それは静的な描写であり、動的な前の二行の歌詞を受けている。コントラストの妙である。
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いま日本人全体から個人の権利の概念だけが拡大暴走し、国に対する義務も犠牲も忘れ去られてしまったのは(あるいは完全に無視されてしまったのは)、ただ国を愛する気持ちを失ってしまったからだけではないのかもしれない。そうした形而上の概念を疑似体験で触発させる媒体がなさすぎるだけなのかもしれない。
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 いま権利という形而上の言葉だけが理解できているかのような愚かな錯覚は、その言葉が直接儲けや得という生理で把握できる結果に連想・イメージしやすいだけのせいである。現実で「権利」という言葉を連呼絶叫することによってその実績を生んでいるので、聞くだけでも疑似体験しやすい。ところが義務や犠牲はただ損なイメージを喚起するだけでおしまいになる。
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ひと頃は、個人的軍隊経験を持たない若者がみだりに軍歌を歌うなど、軍歌への冒涜だというような言われかたをされたこともある。それこそニッキョーソを利する発想で、軍歌はそのような個人的な思い込みやセンチメンタリズムを超える芸術性と、民族的普遍性を持った文化遺産であり、私たちの誇りなのである。もし個人的戦闘経験を持たなければ鑑賞する資格がないというのならば「平家物語」を朗誦する人はすべて源平の合戦に参加したことのある人でなければならなくなる。
そんなバカなことはない。
 すべての戦争は、賛美したり嫌悪したりするものではない。
 ただ起きるものに過ぎない。人災だが天災に近い。人間への自己の強欲と他者を憎悪する能力は天賦自然のものだからである。
 起こさないに越したことはないのは当然だとしても、起きないことはない。人類の歴史は日本民族を除いて戦争の歴史なのだ。
 明治以降、日本は否応なくその、”自然の摂理“に巻き込まれた。今後も巻き込まれるに違いない。グローバリゼーションの理論と実践の前で、もはや戦争は一国の意思とは無関係になる。
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 戦争自体に「過ち」という添加物はない。
 もしあるとすれば、敗者がそれを自虐史観に結び付ける一点のみである。
 何度も繰り返したが、戦争は日本民族以外の人間性の必然だからである。
 現行の文明が続く限り、パレスチナとイスラエルがすべてを帳消しにし“水に流す”などということは、未来永劫、金輪際、太陽が西から昇ろうともありえない。
 コリア人が日本人を好くなどということも同様であり、支那にいたっては一秒の間断なく、日本殲滅を画策している。いつか必ず、それも遠からず、実行に移されるだろう。
つい最近、中国の首脳(李鵬)はオーストラリアに来て、「日本はあと十年を待たずに消滅する」と公言、明言しており、それは世界中に報道された。その話を私がすると、聞いた日本人は全員、多少戸惑った表情をつくるものの、ニコニコしながら「ふーん」と言って終わりだった。確かにいまのところ、その反応しか術はない。怒ったりすれば、ただちにウヨクとなり、軍国主義復活になり、ニッキョーソに叱られる。
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 ただ、最後のオマージュ、最後の鎮魂として、野村俊夫作詞、古関裕司作曲の『嗚呼神風特別攻撃隊』の歌詞を書き写しておく。
ユメ私がウヨク的発想で書き写すなどとは思わず、ただ素直に、歴史を知る謙虚さと、チャンスを失った痛恨と、一体私たちはいま何をしているのかを反省する意味で、読んでほしい。

 

無念の歯がみ こらえつつ  待ちに待ちたる 決戦ぞ
今こそ敵を 屠らんと  奮い起ちたる若桜
この一戦に 勝たざれば  祖国の行くて いかならん
撃滅せよの 命うけし  神風特別攻撃隊

 

送るも征くも 今生の  別れと知れど ほほえみて
爆音高く 基地をける  あゝ神鷲の肉弾行
大義の血潮 雲そめて  必死必中 体当り
敵艦などて 逃すべき  見よや不滅の大戦果

 

凱歌はたかく 轟けど  今はかえらぬ 丈夫よ
千尋の海に 沈みつつ  なおも皇国の護り神
熱涙伝う 顔あげて  勲をしのぶ 国の民
永久に忘れじ その名こそ  神風特別攻撃隊
神風特別攻撃隊
 合掌!!