「人間晩年図巻」(1995〜99)を読みました。
著者の関川夏央さんは、Wikipediaによると・・
【関川 夏央(せきかわ なつお、本名は早川哲夫、1949年11月25日 - )は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家で、かつては漫画原作者であった。】
とのこと。
私の好きな作家の藤沢周平さんの生い立ちと晩年の状況を興味深く拝読しました。
以下、私の忘備録から一部引用してみます!
人間晩年図巻』1995-99年 関川夏央 岩波書店
藤沢周平 「普通」であろうと努力した作家 1997年1月26日没(69歳) 肝不全
『蝉しぐれ』『三屋清左衛門残日録』『用心棒日月抄』『橋ものがたり』など、北国の藩の下
級武士や江戸市井の人々を主人公にした時代小説で、「進歩」から自由な世界をえがいて多くの読者に愛された藤沢周平(本名・小菅留治)は、1987(昭和62)年頃から異常なまでの疲労感に襲われるようになった。肝炎の発症であった。
藤沢周平の作家デビューは遅かった。食肉加工食品の業界誌編集長をつとめていた71年、年下の才能、安藤広重に嫉妬する葛飾北斎をえがいた「溟い海」で「オール讀物」新人賞に当選した。43歳であった。73年夏、45歳のとき『暗殺の年輪』で第69回直木賞を受賞、翌74年には『又蔵の火』『闇の梯子』を書いた。巧みだが暗い、一部のファンに愛されても地味なタイプの作家にとどまるだろう、とは玄人筋の見方であった。
直木賞受賞後1年半、二足の草鞋の多忙さに耐えかねて勤め先を辞した。そのとき藤沢周平が大いにためらったのは、職場にも、サラリーマンであること自体にも愛着していたからである。筆一本で立てる暮らしの前途が不安だったからでもある。
76年、48歳の藤沢周平は『橋ものがたり』『用心棒日月抄』の稿を起こし、『春秋山伏記』『回天の門』『一茶』の準備に入った。
『用心棒日月抄』は、荘内藩を思わせる「海坂藩」の内紛に巻き込まれて脱藩した若い武士が江戸で用心棒をして糊口をしのぐ日々の物語、『春秋山伏記』は、羽黒山修験者が村住まいのうちに邂逅した事件とその解決を荘内弁でえがいた小説であった。二作とも巧みさは変わらず際立っていたが、すでに恨みも嫉妬も主人公の行動のモチベーションではなかた。そうして江戸の市井であれ東北の農村であれ、明るい色調でえがかれた小説世界の厚みは増した。
『回天の門』は、庄内の豪商の息子で幕末の政治の波に身を投じ、志なかばで暗殺された清河八郎の、『一茶』は小林一茶のそれぞれ評伝小説で、この年刊行の「天保三方所替え」騒動をえがいた『義民が駆ける』と同じく、郷里の風土と藤沢自身の出自でもある農民に視線を向けた記念碑的作品であった。この頃、藤沢周平は月二百枚の原稿を書いたが、それは彼にとって破天荒な執筆量であった。
初期作品にさす不運の影
藤沢周平の初期作品の暗さは、若いころから重なった不運の影であた。
不運のはじめは肺結核である。
藤沢周平は山形県立鶴岡中学校夜間部を終戦の翌年春に卒業、山形師範学校に進んだが、この年の師範入学はたまたま五月で、その態度決定ぎりぎりの時期、兵隊であった兄が中国から復員した。そうでなかったら藤沢周平は、師範学校をあきらめて実家の農業を継がなければならなかった。
山形師範では一年上に、のちに教育の実践記録『やまびこ学校』を刊行した無著成恭がいた。山形市ですごした三年間、藤沢周平は同人誌と映画に熱中した。映画好きは高じて、市内に六館あった映画館に毎日通い、七日目には同じ映画をもう一度見たりした。その多くは外国映画で、日本の時代小説作家はみな用が好きのモダニストであるという条件を無意識のうちに満たした。49年、21歳で卒業、生家から遠からぬ鶴岡市郊外の湯田川中学校に赴任した。しかし、二年後、肺結核と診断されて休職した。一年間自宅療養したが病状は改善しなかったので、兄に伴われて上京、東村山の結核療養所に入った。
療養所は文字通り生と死の交錯する場所であった快癒して社会復帰する人もいれば、そのまま生を終える人もいる。藤沢周平は何本かの助骨とともに病巣の切除手術を受け、発病以来六年で社会復帰した。療養所では俳句の会に加わっていた。その会誌名「海坂」は水平線上の、あるかなきかの弧を坂にみたてた言葉だが、後年藤沢周平は酒井家十四万石、荘内藩をモデルに自らが造形した藩にその名を与えた。
社会復帰したら鶴岡にもどってつづけたいという希望を持っていたが、訪ねた校長は、「君は中央で活躍する人だと思う」とやんわり拒絶した。
「就職を頼んで回った郷里の人たちは、結核を患って手術で回復した人間が、はたして人なみの仕事が出来るものかどうかと、内心の危惧をおさえられなかったのではなかろうか」(藤沢周平『半生の記』)
東京でいくつかの業界紙を転々としたのち、新橋の食肉加工業界紙に落着いた。
だが不運はつづいた。妻が若くして亡くなったのである。
最初の妻悦子は、藤沢が務めていた時分の湯田川中学校の生徒だった。直接の教え子ではないが、その姉夫婦も教員で、夫の方がおなじ中学校の同僚だった。その頃東京で勤めていた悦子は、姉にいわれて西武線八坂駅に近い療養所に藤沢周平を見舞った。やがてふたりは親しんで59年に結婚した。藤沢周平31歳、悦子24歳であった。
ひとり娘の展子が生まれたのは63年3月だが、出産直後から悦子は体の異常を訴え、娘を生んで八か月後にガンで亡くなった。28歳であった。病気の急速な進行とあまりにも不条理な死は、藤沢周平の初期作品『闇の梯子』にえがかれたごとくであった。筆名の藤沢は悦子が生まれた集落の名からとったものである。
故郷の母親を呼び寄せ、幼い娘と三人で暮らしていた藤沢周平が、東京・小岩の四歳年下の下町女性、和子と再婚したのは六年後の69年初めであった。
その頃浅草の繊維問屋に勤めていた和子と藤沢周平は、社が退ける頃新橋駅で待ち合わせて日比谷公園へ行った。ベンチにすわるのではなく、歩きつづけて公園を通り抜け、有楽町駅の改札で別れる、そんな短い「あいびき」であった。藤沢周平は娘と老母の待つ西武池袋線の奥、東久留米の都営住宅に急いで帰らなければならなかったのである。
いっしょにそば屋に入ったのが一度、喫茶店に入ったのも一度きりだった。その喫茶店で藤沢周平は包丁を借り、メーカーからもらった大きなハムを二つに切って半分和子に持たせた。だが、会った翌日には藤沢周平は必ず速達で手紙を書いた。そして展子に会わせるとすぐ和子に懐いたことが決め手となった。それまでにも何人かの女性を人に紹介されていたのだが、娘が懐かなかった。
知り合って三か月後に結婚、41歳と37歳であった。
〈結婚してから父は、「あの時、この人を逃がしたら、このあと絶対にこんなよい人とはめぐり会えないと思った」と母に白状したそうです〉(遠藤展子『藤沢周平 父の周辺』)
藤沢周平自身はこう書いている。
「再婚は倒れる寸前に木にしがみついたという感じでもあったが、気持ちは再婚できるまでに立ち直っていたということだったろう」(『半生の記』)
和子は展子を育てながら、藤沢周平の原稿の最初の読み手となった。
だが、作品から暗い影が消えるには、今少し時間が必要だった。最初の妻の死後、彼が雑誌の懸賞小説に応募しつづけたのは自分の屈託を吐き出すためだったが、「オール讀物」新人賞に当選しても、直木賞を受賞してもそれはまだとどまり、小説が明るく転調したのは76年、最初の妻の死から十三年後であった。
「普通」であることへの愛着
1987年、59歳の藤沢周平は異常な疲労感を覚えるようになった。かつて結核手術を受けたとき、輸血から感染した肝炎が発症したのである。
89(平成元年)年、展子が誕生日に古い映画のビデオテープをプレゼントしようと父に希望を尋ねると、『カサブランカ』『十二人の怒れる男』『逢びき』『自転車泥棒』『鬼火』『かくも長き不在』などをあげた。それらは山形師範学校時代から会社員時代の初期にかけて見た懐かしい映画であった。
91年、63歳の藤沢周平は「長生きしたなあ」としみじみ述懐し、遠藤正と結婚していた展子に、「どうか28歳で子どもを産むのはやめてくれないか」といった。
肝炎は憎悪して通院では追いつかなくなり、新宿区若松町の国立国際医療センターに入院したのは96年3月であった。
7月に一度退院、『漆の実のみのる国』の最後の六枚を書いて擱筆したが、もはや二階の書斎に上がる体力はなかったので、それはダイニングルームのテーブルで書かれた。
まだ四十枚分ほどは書くはずと思っていた和子が、ほんとうにこれでいいの?と尋ねると、藤沢周平は「これでいい。編集者に渡して、雑誌に載せるのもいいし、このまま単行本にしてもいいと伝えて欲しい」といった。受け取った文芸春秋社の編集者萬玉邦夫は、まだ続稿の望みを捨てきれなかったので雑誌に掲載せず、原稿を引出しにしまった。
その年9月、再入院。当初はテレビでNHKの朝ドラ、野球、大相撲などを病室で好んで見ていた。しかし体力は日ごとに衰え、97年1月26日、この偉大な小説家は亡くなった。六九歳、ちょうど和子との結婚記念日であった。
藤沢周平はものにこだわらない人と思われていたが、必ずしもそうではなかったと遠藤展子はいう。
「父は物事にこだわらないのではなく、普通でいること、平凡な生活をまもることにこだわっていたのです」(『父・藤沢周平との暮らし』)
死後に見つかった「遺書」は和子宛で、「展子をたのみます」がその最初の言葉であった。
ついで「(叔母さんや妹と)一緒に買い物をし、食事をし、小旅行をしたりして、長生きしてください」とあった。
「小説をかくようになってから、私はわがままを言って、身辺のことをすべて和子にやってもらった」「ただただ感謝するばかりである」「そのおかげで、病身にもかかわらず、人のこころに残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることが出来た。思い残すことはない。ありがとう」