【読書シリーズ】
『梅干しと日本刀』樋口清之 祥伝社黄金文庫
樋口清之:(ひぐち きよゆき、1909年1月1日〜1997年2月21日)は日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授。國學院大學文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章受章。
「梅干しと日本刀」(上・中・下)の3冊構成を一冊に纏めたもので、文庫版とはいえ644ぺージで読み応えがあった・・。
「日本人に勇気と誇りを与える本」である。
備忘録
【一般の木造建造物は、力学的な力の分散法として、木材に針葉樹を使った。針葉樹は横には収縮するが縦に対する収縮があまりない。西洋では広葉樹の栗、樫、楢を使うから全体に収縮する。日本の場合、縦への収縮がないから五重塔を建てても、高さは低くならない。その代わり、横は縮むから、柱と横木の間にすき間ができてガタツキが起こる。古い家ががたつくのはそのせいだが、実は、この隙間が地震に対して家を倒れなくしているのだ。
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鉄を自由にあつかうには、高温の熱を出す燃料が必要である。西洋には早くからコークスがあって千八百度ぐらいの熱を出せた。日本では無煙燃料としては木炭しかない。木炭はいくら酸素を供給しても、千二百度が限度である。普通、茶をわかしている木炭は八百度である。「備長炭」という魚を焼く木炭は、六百度という低温で、いちばん長時間、同じ温度で燃える炭である。だから魚がまんべんなく焼ける。
「備長炭」は備中屋趙衛門という人が、和歌山県田辺市の近くで発明したので、その名を取って名付けられたものだが、発明は今から約三百年前、元禄時代である。それ以前は「佐倉炭」が多かった。もっと以前になると松炭である。
日本刀は後ろにそらせてある。この反りの理由は、直刀で直角に物を切ると、刀身の断面角度は三度ぐらいあって鋭利さに欠けるからである。刀身を反らして斜めに引き切ると、円運動になる。すると三度の刃が物を切っていくときには0.1から0.08ぐらいの角度になる。これは安全剃刀の刃ぐらいの鋭利さである。しかも、丈夫さは三度の角度分だけあり、加えて重量がある。重さがあって、厚みがあって、鋭利さが安全剃刀ぐらいの刃、それでいて力が加わると折れずに曲がる柔らかさを持ち、固い物も切れる硬質さを持つという、完璧な刃物が出来上がった。
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日の丸弁当というのは九十九パーセントが米で、副食は梅干しだけである。栄養学的にみれば、こんな低カロリーで野蛮な弁当はないだろう。だが、これは間違いである。大量の白米と一粒の梅干しだが、これが胃の中に入ると、この梅干し一粒が、九十九パーセントの米の酸性を中和し、米のカロリーは食べたほとんどが吸収される役割をはたす。
すなわち、日の丸弁当は食べてすぐ、エネルギーに変わる、労働のための理想食なのだ。しかし、日の丸弁当は、カロリーこそ摂れるが、ビタミンの種類が足りないし、これだけを毎日食べているわけにはいかない。しかし、ビタミン類というものは毎食時、つねに一定の量を摂取しなければならないというものではない。たとえば、夕食時にそれを補えばいいのである。今必要なカロリーを摂るという意味では、日の丸弁当は、近代的な進んだ知恵なのだ。
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タクワンは、秀れた発酵食品であり、消化促進に良い科学的な食品とされている。一般に、漬物というと、どうしても食品価値がないように思われがちだが、それはあやまりで、漬物にはいろいろな雑菌、とくに酵素が多量に含まれているから、胃の中で、他の食品を消化分解する作用が強いのである。
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ごぼうは、完全不肖化食品で、食べても体の中を通り過ぎるだけである。何の栄養にもならない。しかし、その代わりに、体内を通りぬけるさいに、全身のコレストロール、無機水銀、PCBといった有毒物が全部吸収されて、排泄されるのである。解毒作用というか、毒物排泄食品としてはごぼうは最優秀食品である。
こんにゃくは、九十八パーセントは水分で、あとは完全不肖化の凝固した澱粉質と灰分が少し。カロリーはない。けれども、こんにゃくは、こんにゃくマンナンという薬物を含んでいて、このマンナンはコレストロール溶解剤である。今日、コレストロール溶解剤として売られているのは、合成マンナンである。合成されたものより、自然のものを食品として摂取するほうが効果的である。こんにゃくを小さい時から食べていることが、高血圧や血管炸裂をどれほど防いでいるか、計りしれないだろう。
つねづね、私が“「ごぼう」と「こんにゃく」を食べているかぎり、日本人は近代社会の中で最後まで生き残れるだろう”と言ってきた理由である。
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「私たち・・・」のたちは公達のたちで、これは敬語である。答辞は感謝の気持ちを伝えるための一種の公文書だから、この場合、正確には「私ら(あるいは、私ども)・・」と言わなければならなかった。“ら”というのは、一人称を複数形にした卑語なのだから。
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日本人の人間関係の特異なものとして、さらに“義理人情”が挙げられる。打算というものを、仮に合理とした場合、利害を超えた義理人情というものは、不合理である。
「義理」とは元来、道義的な言葉だった。しかし、日本人はその義理の中に、いつも感情をこめており、単なる道徳ではない。一度、恩を受けた。だから、どういう事情があろうと、返さなければならない。返す相手がたとえ不合理なことをやっていても、返さなければならない。これは明らかに道義だけでは割り切れない。とするとやはり不合理を含めた感情表現が日本人のいう義理なのだ。
さて、「人情」というのは、これは一切打算を超えた感情のことで、合理主義とはまったく関係がない。
そこで、日本人は義理と人情を二つ重ね、人間同士が生きてゆく上での、「社会生活を支える紐帯、絆として、封建時代から定着させてきたのである。
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慶応四年、明治維新当時に堺事件というのが起きた。堺を警備中の土佐番兵が、フランス水平十一名を殺害した事件で、そのためフランスから関係者の暫罪と倍賞が要求され、土佐藩士が妙国寺でフランス公使のリオン・ロッシュの前で、つぎつぎに腹を切った事件である。
そのとき、六番隊長の箕浦猪之吉が腹を切っても“ご介錯”といわないものだから、介錯人は首を落とせない。仕方がないから黙って待っていると、箕浦隊長は、ぐっと内臓を取り出して自分の前の地面に整理して並べ、血で辞世の歌を書き、残った内臓を掴んでリオン・ロッシュに投げつけた。リオン・「ロッシュは、脳貧血を起こしてひっくり返り、そのため切腹は中止になった。そこで、“賠償金を値下げしないと、もっと切腹させてやる”とおどかして、とうとう十五万テールに値切った。その代わり残った同隊は、許されたのを恥として、翌日、大阪の大江橋の上で全員そろって切腹した。
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自然破壊、汚染もよく言われるが、自然でなくなった人の心が自然を破壊し、汚染するのである。私は昔の日本がよかったから、それにもどそうと主張しているのではない。もどらないのが歴史である。ただ、私は日本の歴史にも、今日、学ぶべき多くのものがあるといっているにすぎない。
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日本の古い言葉に「和魂漢才」という熟語がある。
これは、日本の魂の上に中国の英知を乗せるというような考え方を表現したもので、今日的にいうなら、日本の伝統的な知恵の上に、近代的ヨーロッパの技術を乗せると、理想的な社会になるといった意味である。
これを言ったのは、菅原道真だから、平安初期のことである。
菅原道真は日本主義者であった。だから、遣唐使に任命された時に建議して、奈良時代から続いていた遣唐使を廃止してしまった。つまり、断ったのである。それが原因になって太宰府に流されて、その地で死ぬことになったわけである。
この建議をするときに言った言葉が、和魂漢才であった。】